神様とお金を結びつけたのは人間である。
神様は人間のいちばん大事なものを捧げさせたいと願われた。お金は人間が作ったもので昔から多くの人間にとっていちばん大事な存在であった。そしてお金のことは口に出さないで、心の中でああだ、こうだと考えるのが人間だ。神様はお金のことで頭を悩まさない。神様にとってお金は必要でない。山を作るのにも、谷を作るのにも、病気を治すのにも、お金はいらない。神様はお金そのものではなく、お金がいちばん大事なのにも関わらず、それを差し出す人々の行為と好意を受けられる。
しかし宗教法人が何らかの事業を計画する場合、相当額の資金集めが必要になることがある。そのような時、「献金すれば不思議とその金額と同じだけ戻ってくる」と具体例を交えながら説明する関係者がおられる。そういったことも起こり得るが、この前提は正しくない。神様にしても、あの人は百万円奉納した、この人は十万円、この人は一万円と区別して覚えておくのは大変だ。献金はなかったものとして捧げる、これが正しい姿勢だ。
厳密にいえば人間の持ち物は全て神様から借りているものばかりだ。ご奉納、献金、寄付金などはその一部をお返しするのだから、当たり前といえば当たり前の行為である。神様は借り物でない、人間自身の持ち物から何かを贈られれば一層喜ばれるだろう。
それでは、お金も衣服も食べ物も土地も家族も全て借り物であるならば、自分の持ち物とは何か? それは心であり、エネルギーであり、時間だ。これらは人間の持ち物だ。これらを神様に注ぐ人々は神様の目の中に入れても痛くない存在だろう。
具体的には自分に何がやれるのか? それは自分で気がついたことを行えばよいのだと思う。強制されずに自発的に行うことだ。他人から言われて行うのと、言われないで行うのと、同じ行為や結果でも雲泥の差であるのは、多くの人が感じるところだろう。求められないでも行うことが、行う方も受ける方も格段の喜びとなる。
「地獄の沙汰も金次第」といった表現もまかり通るこの世である。お金によって踊らされている人々も現実には多いだろう。踊らされているうちは動いているが、動けなくなった時、人間を動かしてくれるものはお金ではない。その時は目に見えないものがいちばんの助けとなる。