日という漢字を眺めてみる (2)

縦の棒はどうかと言えば、たった一本の縦棒で日という字は二間から四間に増え、日が二つになる。

この字は田んぼの田である。日がたてば、時は流れ、田んぼも変化する。昨日、今日、明日と時の流れが起こっているが、流れ自体は目に見えない。目の前のものが変化したのを見て、人は時の流れを感じる。

例えば、田んぼの変化が時の流れを感じさせてくれる。森や林が成長して変化するのは気づきにくいが、田んぼの様子は一年で確実に大きく変化する。田んぼをいつも眺めている人は、日がたった、時が流れたと、はっきり気がつく。

田んぼを変化させるものは何だろうか?
すぐ思いつくのは、太陽、水、手入れ(愛情)であろう。これらはすべて縦の棒である。上から下へ注がれるものだ。

目に見えない日々を重ねている間に、上から注がれる縦の棒によって、目に見える収穫物を持った田んぼに変化する。

日という漢字を眺めてみる (1)

今日という日、明日という日、そして昨日という日。この三つの違う言葉の中で共通しているところは日という字である。日という字は実に頻繁に目にする字である。日とは一体何だろう?

日という字をじっと見るとその意味がだんだん浮き出て来るようである。

まず、日という字は二つの間を持つ。昼と夜のことであろうか。上と下に一間づつある。面積はほぼ同じである。横線をもう一本足せば、「目」になる。「日」、その心は—- 「一つ違いでタいへんなメに遭う」

今日、明日、昨日、一日違いで大変な目に遭ったり、逢わなかったり。昨日は平和、今日は戦争といったニュースはしばしば流れて来る。

横棒とは、横から伸びて来る棒、横から来る邪魔モノ、横やりである。邪魔モノでも時としていい目を見せてくれることもあるが、ひどい目にも遭う。思いもかけないことが起こり、いろいろな目に遭ってしまうのである。こんな日のことを「棒に振ってしまった日」と言う人もいる。

人生の迷い道 (2)

人はなぜ迷うのだろう?
迷い道の構造は人間の迷いよりずっと簡単だ。人は迷い道を選ばざるを得ないように創られている。迷い道は迷っている状態で、間違った道とは異なる。人生そのものが迷路になっている。スタートからゴールまでゲームのように迷路を通り抜けなければならない。勘の働く人でもストレートには行けない。

しかしこの迷路は人に親切設計になっている。迷い道を突き進んでも、結局は皆一緒のゴールにたどり着けるような人生の迷い道だ。迷っている間は心が揺れて苦しいが、揺れが止まればゴールに一歩一歩着実に近づくことができる人生の迷い道だ。物には道理があり、迷い道にも訳がある。

人は迷い道を通り抜けた時、誰でも感じることができる。迷い道を抜けた人だけは感じる喜びを。目の前にひらけた大きな道が一本あることを。その感覚を得るためだけの迷い道だ。

複雑なように見えて実は簡単だったと、後から知るようにできている人生の迷い道。この単純さは後になって初めて感じられる単純さである。

人生の迷い道 (1)

誰でも生きているうちに迷うことがある。自分の中に磁石を持っており、迷いにくい人もいる。そんな人でも持ってる磁石が狂って、違った方向に導かれてしまうときもある。磁石はいつも正確なわけではない。

迷った時に人が取る態度は大きく分けて二つ考えられる。
一つは立ち止まって考え、方向を人に聞いて確かめる人。もう一つは立ち止まらずに自分で考えながら進む人。迷っている間の人の心は揺れている。不安定な状態である。揺れていると体に影響がでる。鼓動が速くなる。血液の流れが速くなる。早く安定した状態を取り戻そうとカラダ全体で焦っている。

こんな状態が長く続くはずがない。自然の流れの中で、自然界のどんな物も長い間揺れていることはないのだ。自身も風も不規則な揺れは自然に止まる時が来る。永遠の鼓動は、不規則な揺れではなく規則正しい運動として存在してきた。迷いはどんな時でも一時的な現象だ。落ち着く時が必ずやってくる。

「出雲と大和」展、東京国立博物館にて

 

ポスター

2月18日、東京国立博物館で開催中の「出雲と大和」特別展に出かけた。
日本書紀成立から1300年とポスターに書いてある。今年、2020年は720年(養老4年)にこの正史が編纂されてから1300年の歴史が流れた記念の年でもある。

出雲と大和とは現在の島根県と奈良県。日本書紀の第二巻(名古屋、熱田神宮蔵)では出雲は「幽」=神々の世界、大和は「顕」=現実の政治の世界と記されている。

会場入り口には出雲大社遺跡から出土した3本の神殿中心部に立っていた心柱が展示されている。この大きさから巨大な神殿が推測される。よく出土してその姿を表してくれたと思う。この展示会では170余の作品が出品されているが、やはり大きいサイズのものが印象に残り、想像をかき立てられる。

出雲大社の心柱 ※東京国立博物館パンフレットより引用

個人的な印象が強かったベスト5は巨大な心柱、出雲の通常よりかなり大きな家や鹿などの埴輪グループ、日本書紀に出てくる実物の七支刀(七つに枝分かれした刀)、奈良県の十一面観音菩薩像2体だった。

金剛山寺から来られた十一面観音像は8世紀の桐材の一木造りで、女性らしい美しい細身の胴を持ち、お顔は親しみがある。何度も見返した。こちらを見られている気がする。217センチの大きな立像だ。

もう一つの十一面観音像は世尊寺から来られた。やはりほぼ同じ高さの一木造り。しかしこちらはがっしり左右安定しておりで全てを超越されている。全く二つの雰囲気の異なる十一面観音像が、時空を超えて、仲良く横並びに立たれている。

京都の旅、宇治平等院 (7)

人力車は平等院入り口で終点。ちょうど12時だったが、続けて平等院を見学することにした。

平等院は40年以上前に修学旅行で訪ねた以来。十円玉に建物全体があり、1万円札の裏に左の鳳凰が大きく描かれている。

庭園はイメージと違った。ちょうど一月から二月にかけて洲浜の掃除で水抜きの最中だった。鳳凰堂中堂、別名阿弥陀堂は足場が組まれており、壁の雲中供養菩薩像あたりはベールがあり修理中。安全保全のため、40名ずつ拝殿する。整理券を300円で購入した。

珍しい豪華な金色の木造の阿弥陀如来像、天蓋、光背は1053年に大仏師の定朝が造った唯一残る当時の像だ。

池の水なくして平等院のイメージは撮れないので、裏に回った。屋根の鳳凰は表も裏もなく変わらぬ姿で立っている。

平等院を裏側から見る

庭園内に2001年にオープンになった鳳翔館がある。その建物の手前で御朱印を頂いた。この日は工事中、そして新型コロナ感染警戒のためか、来園者が少なかった。担当者は丁寧にゆっくりと筆を走らせてくれ、ステキな御朱印を頂いた。

鳳翔館には大きな梵鐘、本物の鳳凰一対、阿弥陀堂壁からの雲中供養菩薩像26体が壁に掛けられている。風雨から守るために外の屋根にある鳳凰はレプリカだ。鳳凰の足は思ったより長かった。体長の4割くらいはありそうだ。菩薩像はそれぞれ異なる楽器を持ち、その種類の多さに当時の豊かさを感じた。大陸から影響だろうか。

優美な御朱印 ⛩

京都の旅、宇治上神社 (6)

 

宇治上神社の本殿
屋根が前半分長く、美しい曲線

宇治上神社は京都宇治の世界文化遺産17の寺の一つだ。鳥居の横の石碑文字がユニークな中国書体。本殿は平安時代後期に建てられた。現存最古の神社で、国宝になっている。鎌倉時代の拝殿も国宝指定で本殿の前にある。

この神社に祀られている祭神の応神天皇、仁徳天皇、稚郎子の物語をM君は詳しく話してくれた。父親の応神天皇に三人の異母兄弟がいた。末子の稚郎子(イラツコ)は学問好きで、人徳あり、百済人の知識にも通じ、父から寵愛を受けていた。

この兄弟が皇位をめぐって争い、天皇空位が続いた。この争いは奪い合いではなく、譲り合いだった。皇太子イラツコは学問が楽しく、皇位を継ぎたくない。兄は学に秀で、温和な弟に天皇になってほしいと願う。美しい兄弟愛だ。その譲り合いは三年間も続いた。その結果はイラツコは自殺し、兄が即位し、仁徳天皇となった。

珍しい抹茶色紙の御朱印

興味深い話だったので、帰ってからイラツコについて調べてみた。イラツコはあるとき道に迷ったが、ウサギが出てきて振り返りながら正しい道筋を教えた。神社に見返りウサギがお土産として売っていた。

ある説を見つけた。イラツコは自害した後、三日後によみがえり、自分の死後の後継問題についての希望を兄に託した。そしてそのあと安心して旅立ったと言うのだ。私はイエスキリストが十字架にかけられ、死後三日目によみがえったという話を思い出した。イエスも12歳の時には学問を極め、教会で司祭達に教えており、その姿に両親が驚いた。時代はイエスが誕生したのは二千年以上前なので、稚郎子の話はそれから三百余年後のことだ。

京都の旅、宇治川周辺と宇治上神社 (5)

旅の二日目は自由行動で5時に京都駅に着いて新幹線のぞみに乗って帰路に着く。

神社仏閣ばかりでなく、自然に触れながら散策したいと考え、京都から電車で20分で行ける宇治の町をゆったり回ることにした。10時20分にはJR奈良線の宇治駅に到着。途中、連山の麓に白の朝霧が横に伸びてきれいだった。この時期によく見えるらしい。

宇治橋そばの電話ボックス
屋根が平等院のミニ版

駅前で観光掲示板を見ていたら、人力車の俥夫さんが元気よく声をかけてきた。続け様に宇治の話を始めた。午前中は宇治橋を渡って宇治上神社の方向が人が少なく、ゆっくりまわれますよ。平等院はその後に訪ねる、皆と逆にまわるのがお勧め、と説明する。確かに。道案内役がいると深い知識も得られるし、思い出にもなるしなどと思い、徒歩の代わりに人力車にした。朝の空気が気持ちいい。

70分のオリジナルコースで、まず宇治橋を渡る、右手に折れて朝霧通りの入り口。由緒ある「つうえん茶屋」がある。代々続く茶人の住まいだ。そこからまっすぐ進むと左手に正覚院の階段が見えた。屋根に鬼瓦があるので止めてもらい、写真を撮る。たくさんの提灯に開運不動明尊とある。昨日の聖護院の不動明王を思い出した。鬼と不動明王、つながっている気がした。

観流橋にて
人力車の元気いっぱい俥夫さん
開運不動尊、正覚院
屋根に鬼がわら

M君によると宇治川は昔から暴れ川で、川沿いにそれを鎮める寺や塔が建っている。宇治川は川幅が広くきれいな青色だ。すこし川沿いに上ると観流橋に続く。左手に宇治発電所の放水の流れ、右手に宇治川の清流があり、橋のたもとで合流。二色の川の流れを楽しめる素敵なスポットだ。人力車に乗ってよかった。宇治川は元気に、悠然と流れている。後で調べると朝霧が川面に立つ風景は平安時代から和歌にも歌われてた。

京都の旅、迎賓館 (4)

迎賓館は2005年4月に開館した。京都らしく現代和風のイメージで匠の技が随所に隠れている。装飾品は少なく、皇室の押さえた芸術を感じる。青海波模様の段通の絨毯、美濃紙で造られた天井明かりのシェード、大ホール藤の間の綴れ織りのタペストリー、キリガネの舞台扉、竹細工の花籠など、11種類の伝統技能者が携わっている。

池のたくさんの錦ゴイは2004年新潟県中越地震の際の、現地のコイを引越しさせたそうだ。発想が素晴らしい、気持ち良いエピソードを伺った。コイ達は元気で大きい。立派な泳ぎを見せてくれている。下の写真の左上に見えるのは特別の賓客のための舟のへさき。池は浅いので舟遊び用に底を平らに作っているそうだ。

新潟から引っ越してきた
大きな錦ゴイの群れ

地下には令和元年11月10日の祝賀の儀パレードに使われたオープンカーが展示されていた。プレートに日付が書かれている。

天皇皇后の祝賀パレードで
使われたオープンカー

京都の旅、迎賓館 (3)

知恩院近くの「かがり火」で湯豆腐鍋定食をいただいたあと、いよいよ迎賓館に向かう。ここでは館内のスタッフが礼儀正しく迎えてくれた。2時間あまりのガイド付き。始めに大ホール藤の間で、十二単と着付けの実演があった。十二とは多くのものが一つにまとまる意味で(例えば十二ヶ月で一年)、着物の数は五枚だそうだ。お方さまとは言葉は交わさず、目の位置まで立つこともない。最後に、時間をかけて着た上の着物を瞬時に全部脱ぐ技があり、これを「もぬけ」と言うらしい。もぬけの殻はここからか?

十二単の着付け完了
着付けの最後は「もぬけ」の
技をご披露
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