新しい年を迎える

新しい年を迎える前に、捨てる執着を考える。
魂の脱皮をし続けることで成長を続ける。
身を軽くすることで、魂の軽やかさを保つ。

神の流れは悠久の流れ。
細く流れるのは、人間社会の急進の流れ。
神の持つ流れは大き過ぎるため、目に入りにくい。
心を騒がせないで眺めていらっしゃい、
かつて神様は言われた。

神は常に静かな心を持っていたいと願う。
祀りごとを静かに行いたい。
神の世界の祀りは騒がしくない。

お祀りに供えられるお神酒。
人間が米から作り、お神酒を神にお供えする。
神はそのお酒の氣を人間に振舞われ、お返しをする。
それを眺めておられる。

年末を迎えて、お開きの言葉(2)

その家は家庭とは違って神様の家である。その家の数は魂の数だけではない。もともと家は複数が住むもの。神様の家も複数の魂が入っている。

家の形は共通したものがある。人間の家のシンボルは、円錐体をなしている。神様の家は地上とは違って逆さまの円錐体をしている。

安定の難しい逆円錐体であるが、これが神様にとっては安定の良い円錐体になっている。安定が悪いようで実は安定している。底から上に広がっているので「神の氣」を逃さない。下方を頼り、だんだん上方に頼る。下の方に「神の氣」があり、ここが中心でその家が回っていく。コマのような動きで中心点を保って家が回転するようになる。

そこは空間の中で絶えず神の氣を受けて回転しており、魂が成長して行く。その魂は複数であり、その中で成長が高まって行く。中にいる魂は家族ではなく、親族のようだ。家族のように絆は深くないが、親族のような距離感を保つつながりだ。

人間の執着は取って良いものと取らないで良いものがある。取るべき執着は仏教でいう百八の煩悩。

取らないで良いものは三つある。生への執着、性への執着、そして成への執着。属性となっているものは取らないでよい。

年末、お開きの言葉 (1)

今年も余すところ5日間だ。過去を振り返ると苦しかった期間も楽しかった期間も一瞬のことのようだ。

人間は誰でも生きることに執着している。生きるとは体が動いていることを言う。人間はこの生きることに対する執着がある。病気で寝ている人は静養しており、大胆に体を動かすことができないでつらいと思う。動いていることが生きている証拠である。

生存への執着のほか、人間は性に対する執着を持っている。そして成長への執着もある。

成長したいと思う執着は尊い執着だ。死んだらおしまいと言う人でも老後の楽しみを求めるのは成長への執着の表れだ。何かを学ぶこと、学びたいと思うのは、人間の成長への執着。カラダがある期間の個人的な執着だ。

一方、カラダのない、魂が持つ生、性、成への執着とは?
性別を持たない、永遠の魂には生、性への執着はない。
あるのは成長の執着だけだ
この成長は個の成長だけにとどまらない。プラス、成長する家がついてくる。

成長する家とは、家があり、その中で魂も成長して同時に家も成長する状態をいう。家と共に己の成長があるが、家の成長に続いて、それから己の成長がある

 

ウルパン・アキバ滞在記 (7)

時計が9時を回った時はもう野宿だろうと、ほとんど諦めていた。もう1時間も閉鎖時刻が過ぎている。しかしハリーはねばり、車を走らせた。と、突然大きな看板が闇の中から現れた。

「ジョルダンヴァリー・クロッシングポイント」

そして矢印があった。もう10時を過ぎている。国境に近づくと灯りがついていた。最後のスタッフが戸締りをしていた。すがる思いで事情を説明し入国を頼んだ。数多くの入念かつ執拗な質問をクリアしてイスラエルの地に入国できた時は、万歳、バンザイと叫びたいくらいの高揚感だった。

真夜中の12時にウルパンの門をくぐった時、我が家に帰って来たような安堵感があった。

ヨルダン川、洗礼式の場所
(イスラエル側)

 

ウルパン・アキバ滞在記 (6)

デビッドはアンマンに向かうと言うので彼もドライブに加わり、ツアーメイトとなった。英語圏の人は情報量が違う。駅前近くの安価なホテルを紹介してもらった。鳥料理のレストランで10時近くだったが、夕食を美味しくいただくことができた。見知らぬアラブの土地で米国人の鳥学者は心強い道連れだ。

3日目。私たちはアンマンから1時間のジェラーシュと言う古代ローマの遺跡の街を訪ねた。この日ハリーは仕事だ。ジェラーシュの町は全体が古代十都市連盟デカポリスの遺跡なのだが、非常に保存が良い。原型が完全に残っている立派な遺跡の数々に驚き、感激した。考古学に詳しい人は興味が尽きないだろう。そして古代劇場は今も夏の音楽祭でステージとなっている。素晴らしい遺産を持ちながらそれほど観光地化されておらず、素朴なのがまたよかった。

この日の夜にはウルパンに戻らなければならない。翌日は新学期だ。鳥学者と別れを告げ、夕方4時にアンマンを出た。帰りはナビゲーターのハッサンはいない。道に迷いながら国境にたどり着いたのが7時。しかしそこの役人は
「マイカーでイスラエルに入国するのは、北のジョルダンヴァリー・クロッシングポイントだ。8時には閉鎖されるから今夜は泊まった方がいい。」
と、すげなく言われた。

慌てて北に向かうが行けども行けども暗闇が続く。灯りも標識もホテルもレストランもない。人々は親切でも英語が通じない。銀行でも換金がうまくいかなかったので、ヨルダン通貨もない。食物もなく朝から食べそびれていたので空腹だ。途中道を尋ねた商店の人が追いかけてきて何やら包み紙を渡してくれた。パンが幾つか入っていた。食べ物をもらってこんなに有難いと思ったことはない。

ウルパン・アキバ滞在記 ⑸

ウルパンでは彼のほかに21ヶ国の人々と出会った。そして同じ釜の飯を食べたのだ。
これはとても貴重な体験だ、毎日強くこう思いながら過ごした。

初めの三週間の学期はまたたくまに過ぎた。
日本からのご夫妻は帰国の途に就いた。しづえさんとはクラスで苦労を共にし、心優しい大沢氏には勉強その他多くを教えてもらい、お世話になった。多くの時間を共有し、語り合ったので前日から別れが辛く、落ち込んでいた。私はさらに1ヶ月間の授業で苦労しなければならない。仲良くなったクラスのメンバーもほとんど入れ替わるのだ。

次の学期まで4日間の休みがあった。とにかくウルパンの敷地を出て外の空気を吸いたかった。韓国のハリーがヨルダンのアンマン支社を訪ねると言うので、ガソリン代割り勘で同乗させてもらい、まだ見ぬヨルダンを観光することになった。アンマンから留学しているハッサンが家に帰るのでやはり同乗して道案内をしてくれることになった。この3日間のヨルダン旅行は非常に印象に残る旅となった。

1日目。国境の税関で手間取ったため、ネタニヤを出発して7時間かかってアンマンの町に就いた。ヨルダンでの観光の予備知識がなく、ホテルの人に近くの見どころを教えてもらった。市内のローマンシアターを訪ねた。そこは現在も町の人々の憩いの場所となっていた。急な階段をベンチがわりにたくさんの人々がくつろいでいた。レバノン杉が風景の中でアクセントになって異国を感じさせてくれる。

アンマンのローマンシアター

二日目はハッサンが強く勧めるペトラの遺跡を訪ねることにした。ハリーの事務所も土曜日で休みだ。アンマン市内は道路が複雑で、市外に出ると英語のサインはなくアラビア語だけだ。必ず道に迷う。

4時間かかってペトラに着いた。入り口でペトラ滞在2日目と言う米国の鳥学者デビッドと出会った。旅は道連れ、彼も加わってこの細く続く1キロの古代ナバテヤ人の遺跡を歩いた。インディジョーンズの映画の撮影場所にもなったそうだ。ピンクの岩で造られた稀有な地形、切り立った断崖に圧倒される程高い王家の墓がそびえている。鳥学者のデビッドは遠目が効き、はるか頭上、塔のてっぺんにとまっている白鳩のツガイを見つけた。途中、少年が生まれて間もない鷹の赤ちゃんを売っていた。人々の生活は大変そうだ。王家の墓となっているいくつかの洞窟のほかに、修道院や博物館がある。山にも登り、往復6時間もかかった。しかしその価値は十分にあった。

ペトラ、鷹の赤ちゃん

 

ウルパン・アキバ滞在記(4)

日本の大沢氏の中級クラスではエッセイや新聞記事からのリーディングが多いそうだ。毎日宿題が出る。授業時間の他に自室で3時間くらいの勉強が必要だ。発音の課外授業もあり忙しく、手紙を書く暇もない。移民の生徒たちは特に熱心に学ぶし、授業の進度も速い。宿題も大沢氏に助けてもらわないとこなせなかった。

授業の他にも行事予定が目白押しだ。一週間の予定表が配られる。バイブルクラス、独立記念日の祝典、ダンスやフォークソングの練習、ユダヤ教の年間の祭りなど。毎年アメリカから参加していると言う年配の女性詩人がこう感想を述べていた。
「4月5月は独立記念日を始めとして、民族的行事が特に多い時期。だからウルパンの雰囲気はエモーショナルになり過ぎるのね。」
だが私にとってはこうした行事からユダヤ人の建国からの思いを感じ、ベストタイミングで参加できラッキーだと思っている。

ここの宿泊施設は軍隊の女性兵士の定宿でもあるので、食堂で一緒になる。シャバット(ユダヤ教の安息日)のディナーでは彼女たちの力強いフォークソングを常に聴くことができた。イスラエルには国民全体で歌える愛唱歌がたくさんある。こうした歌声からもイスラエルの気持ちが感じられる。

土曜日だけが唯一の休日で朝寝坊できる日だ。徒歩5分で行ける海岸には風通しのよいカフェテラスがあり、宿題持参でも、地中海を目の前にしてよい気分転換ができた。また二週間ごとの遠足も楽しみだった。チャーターバスで、カイザリア、エルサレム、ナザレなどの古い町を訪ね、高原を歩きながらガイドから植物や地理、歴史の話を聞いた。集合時間に関しては日本人からするとルーズだ。遠足ではそれが幸いして、急がされずにゆったり散策ができた。

ウルパンでの体験で良かったことの一つは韓国からのハリーと知り合ったことだ。彼は30歳半ばのビジネスマンだ。1年の予定でイスラエルの市場調査を行っている。彼の話は興味深かった。父親は人間国宝で金属の食器を作っている。韓国内の徴兵制度とその生活、教育問題、北朝鮮に残る両親との突然の別離があったこと、その後の家族との連絡方法が大変なことなど、ここでも日本とかけ離れた事情を抱えて生きている人たちがいた。ハリーと知り合いになって韓国が身近になった。

ウルパン・アキバ滞在記 ③

一週間後、戦争の終結宣言があるや否や、彼らは自家用車に荷物を詰め込み、一刻も早く家に帰りたいという様子で出て行った。

宿泊の部屋は4人用だが3人で使用することになった。ルームメイトは特殊児童の教育に携わるアメリカ人と、イスラエルへ移住を希望しているブラジルからの若い女性だ。彼女は英語を話さなかったので、挨拶以外のコミュニケーションは難しかった。アメリカ人は社交的で年齢も近かったので心強いルームメイトになってくれた。

ところで私は自分に対してウルパン滞在中の心得を二つ考えた。
●一人行動をしない。自分から積極的に人々の中に入って行動をする。
●好き嫌いを表さず、多くの人と友達になる。

これらのスローガンを決めると、言葉の持つ力だろうか。一人旅、しかも未知の学校生活を目前にして、何も心配することはないと思えてきた。多くの新しい体験を通して充実した学校生活になるだろう。

新学期1日目、説明会とクラス分けがある。決められた集会室に早めに行った。すると何と年配の日本人夫妻が待っている姿があった。この政情不安定の時期に、両親と同じ世代の日本人がウルパンに来ているとは予想だにしなかった。

聞くと男性の大沢氏は70歳を過ぎて二度目の入学。すでに5年もヘブライ語を続けており、夫人のしづえさんは初めての挑戦、しかも英語はわからないという。特に夫人の勇気にびっくりした。クラス分けの結果、しづえさんと同じクラスになり、英語の説明がある時は通訳することになった。

ヘブライ語初級クラス、
 世界各地から参加

クラスメートの顔ぶれ。ロシアからの移民の夫婦、休暇を利用して参加したスイスからの航空会社勤務の若い女性、韓国からの駐在員、ロシアから移民で大学の物理を教えている教授、アメリカから長期旅行中のピースメーカーと称する男性、その他、南アフリカ、フランス、ナイジェリアからの参加者15名の小クラスだ。

皆ヘブライ語の初心者なので授業では日常会話が多くなり、自己紹介やら各国の事情が話題となった。ロシアからの物理学者とナイジェリアからの留学生がひょうきんで旺盛なユーモアのセンスがあった。二人のおかげで和気あいあいのクラスになった。

ウルパン・アキバ滞在記 ②

金浦空港、済州島空港で7時間待たされ、飛行時間20時間というあきあきするフライトになってしまった。機内ではイスラエル人の半導体関係のエンジニアが隣りに座っていた。4人の成人した子供の父親で50歳くらいの気さくな、落ち着いた感じの人。有り余る時間の中、話が弾み、国や仕事、旅や家族の話などから、個人的な結婚・恋愛・離婚事情までに及んだ。おかげで降りる頃には彼の半生が頭の中に入っていた。

同機ではハイファで日本博物館のマネージャーをしているという同年代の女性とも知り合いになり、ハイファでの再会を約束した。イスラエルに到着する前からフレンドリーな雰囲気に触れて不安がだんだん消えていった。(良い出会いが待っている。)もう軌道に乗った。前進あるのみだ。

テルアビブ空港に着いたのは夜中の2時半だった。友人マリアの姿をゲート出口で見つけた時は、持つべきものは親切な友達だ、と心から嬉しく思った。私が日本を離れる前、テルアビブでバス爆破事件が続き、レバノンとの戦争も始まっていた。政情も不安定だった。実際、テルアビブ市内ではマクドナルドやショッピングセンターの入り口でテロ予防のための手荷物チェックがあり、改めて国情の違いを思った。

しかし、この国は昔から複数の異なる宗教、異なる人種が共存しつつも特別な聖地であり続けた。平和と争いもある、世界の縮図のような国、この点がイスラエルという特殊な土地の本質かもしれない。

マリア宅の裏庭に住む
親子ネコ

テルアビブから地中海に沿って車で1時間北上するとネタニヤというリゾートの町がある。目指すウルパンはこの町の郊外にある。マリアが車でウルパンまで送ってくれた。海岸に近い、住宅地区にウルパンの敷地は伸びており、学校とコテッジスタイルの生徒専用ホテルが点在している。スプリンクラーが随所にある庭には彩りよく数々の草花が咲いていた。到着したのは春休み最後の日で、新学期の前日、4月21日だった。

「普段の休み中は人がもっと少ないですよ。今はレバノン近くからの避難民が南下し来ている。このホテルでもその一部を家族単位で受け入れているんです。だからいつもより賑やかですよ。」
チェックインのとき、ホテルの人が教えてくれた。
(続く)

ウルパン・アキバ滞在記(1996年)①

1995年10月31日、自分の中で声が聞こえてきた。

「イスラエルにいざ行かん。今度はできるだけ長く。
そこから世界を眺めよう。」

今までとは違う旅のスタートだった。

私はそれまでに2回イスラエルの土地を訪れていた。最初は1985年12月、画伯M氏をリーダーとする9日間のグループツアーだった。二度目は1991年の9月、東京で親交のあった友人家族を訪ね、エルサレムに三週間のホームステイをする機会があった。同じ国を三度訪問するとなると観光だけでなく、文化やそこに住む人々をより深く知りたい欲求が出てくる。

私は翌年の春に出発することを決めた。どんな場所で、どう過ごすかは直前までイメージが湧かなかった。年が明けて3月、ある旅行会社のパンフレットを手にした。それはヘブライ語学校(ウルパン・アキバ)を紹介していた。生徒は世界各地から集まるあらゆる世代の人々、あらゆる職業の人々、とあった。人種や宗教は問わない。ウルパンに隣接する宿泊施設に泊まり、三食を共にする環境でヘブライ語を学ぼうという主旨だ。部屋もほとんど共用タイプだ。

今回、多くの人々と出会い、対話したい私の目的にぴったりの生活の場ではないか。ヘブライ語は難しそうだが、言葉からその国の文化もわかる。聖書の原文にも触れられる。記憶力が減退しつつある脳への刺激にもなる。「これだ」というヒラメキと同時に行くべき理由が次々と浮かんできた。

すぐ手続きにかかった。とりあえず泊まる場所と食事は確保できる。私は1学期22日のコースを2学期間、滞在することにした。

(集団生活は遠い昔の経験だ。
今さら見知らぬ異国の人たちと部屋を共有できるだろうか?
マイペースの生活を大切にしてきた私が。)

一抹の不安はあったが、全て経験は無駄にはならないだろうと、4人部屋を選んだ。必要書類を二週間で揃え、ファックスで送った。翌日には入学日時の確認の返事が送られてきたので、迅速な事務処理に感心した。これでフライトを予約することができた。4月の入学に間に合い、出発を4月17日と決めた。

ウルパンへ出発する前、テルアビブの友人宅に最初の4日間泊めてもらうことになった。ソウルから直行で13時間で到着の予定にアクシデントが起きた。
(続く)

Translate »