エミール・ガレ展 ー みらい美術館にて

散歩中に見つけたみなとみらいの片隅にある美術館。
週末の金、土、日曜日のみ開館するこじんまりしたスペースだった。今回は50点あまりのガレの作品、入り口近くの寄木細工のチェストもすばらしかった。

特別出品の「フランスの薔薇の大壺」はさまざまな技法がほどこされている。全体の色彩が心穏やかにしてくれた。

フランスの薔薇、1902

マーガレットは母が好きだった可憐な花だ。
庭に群生していた。

マーガレット文ランプ

雀と雪の和風柄に目をひかれたが、クリスマス用に製作された。「善意の人々に」と賛美歌の一節が記されている。

雪中雀文花器、1898ー1900

特許を取得したマルケットリー技法の紅葉柄の大型花器。加熱したガラス器本体に模様をはめ込む象嵌技法に驚く。

紅葉文花器、1900年頃

歌手のロッド・スチュアートが同デザインランプを所蔵しているというトリビアがパンフレットにあった。ガレも南国の花、ハイビスカスに気を奪われたのだろうか。

ハイビスカス文ランプ

関東地方の梅雨明け

 

関東地方の梅雨明け、7月16日

今年の関東地方の梅雨明け宣言は7月16日、昼ごろだった。雲の形はくっきり。東京五輪やコロナの予防策、ワクチンなどなど、モヤッとした世の中の空気が変わった。天気は元気のもと。

「ざわつく日本美術」@サントリー美術館

尾上菊五郎、明治時代

7月15日サントリー美術館を訪れた。
今回のチラシの表紙を飾り、プロローグのキャラクターになっている石版画の役者絵。明治時代、出版元「彫刻会社」は、石板印刷の機械を購入し、銀座で会社を創業するも5年で閉店。会場には目の部分に後ろからライトを当てた絵がいくつも並ぶ。観る角度で表情が変わるのを楽しんだ。作者は石版彫刻師のオットマン・スモーリック。

秋草図屏風、伝尾形光琳

珍しい立体的な表と裏を描いた菊が散りばめられた二曲一双の屏風。
盛り上がっている花弁は胡粉(ごふん)を使用している。

桐竹鳳凰蒔絵の文台、卵形の水入れ
硯箱の蓋部分

硯箱の蓋を開けると、二羽の鳳凰が左右に並び、真ん中に卵形の水入れが現れる。こんな道具で恋歌や物語を書いたら、楽しい時間はずっと続くだろう…..

天部像頭部、平安時代

エピローグとして置かれていた吉祥天などをあらわした女性神の頭部。
平安時代の伏し目、穏やかな和みの雰囲気を今に運んでいた。

親切なメガネ屋さん

目が早く疲れる。
「眼鏡の機能、ブルーライトカット率を上げてもらおうか。視力検査も久しぶりに受けよう」と思い立つ。

メガネ屋さんでフレームを見て思い出した。
1年以上前から左右のこめかみが痒く炎症が出たり薄くなったり繰り返している。皮膚科で軟膏を処方してくれた。「眼鏡の金属アレルギーかもしれないが検査は複雑で時間がかかる」と言う。

複雑な検査をするほどでもない。そのことをシニアのアドバイザーに言うと、現在のフレームを点検。丁度こめかみをかする所に小さな飾りネジがあった。「2本取っても構造上問題ない」「まずは炎症を治すことが先ですね」その場でネジを取ってもらった。

あれから1ヶ月経ち、去年からのこめかみの痒みは消え、すっかり治った。

新調したメガネ

ジャーナリスト立花隆さんの訃報

知の巨人と言われた立花隆さんが、4月30日ひっそりとこの世を去っていた。
6月30日のNHKのクローズアップ現代で、急遽、追悼番組が放映された。ゲストの文芸春秋の元社長の話は尽きず、もっとエピソードを聞きたかったが、中途半端で番組は終わった。

多くの著作物を残されたが、私が読んだのは1997年の「インターネットはグローバル・ブレイン」くらい。73歳で自らもがん患者になり、「死」や「臨死体験」について世界各地で取材した。NHKでドキュメンタリー番組を作り、私も興味がある分野で視聴した記憶がある。

今回ジャーナリストで元外交官の佐藤優氏が文春でコメントを載せていた。佐藤優氏は神を信じる立場だが、立花さんと対談した時、波長が合わなかったそうだ。しかし晩年死や臨死体験(形而上学)に関心を持つようになった立花さん。「なぜ見えないものに関心を持たれるようになったか、天国に行ったら話したい」と述べている。

立花さんは多方面で専門家並みの多くの知識を蓄えていた。「知ることに終わりはない」。知りたい欲求が枯渇することなく、自分の病気体験、死も、探究の対象だった。

ふっと「なぜ山に登るの?」「そこに山があるからさ」の山男の答えを思い出した。知りたいから探究した人生、その情熱に説明はいらない。

三島由紀夫vs東大全共闘 ー50年目の真実ー

アマゾンのプライムビデオを開くと、冒頭に三島由紀夫のドキュメンタリー映画が出てきた。昨年劇場公開された。1969年5月13日、東大駒場キャンパス900号室にて東大生約1000名と三島由紀夫が討論した記録だ。TBSテレビ局で極秘保管されていた。観たかった映画に巡り合った。

50年前、私は大学1年生だった。三島由紀夫の割腹事件は朝日号外新聞を手にして知った。あれから50年経ち、歴史となって世に出た。共闘、民青、ゲバルト等々、あのような学生運動の形は過去のものになったが、今の日本を再び意識できる。91歳で世を去った母もよく「日本の行き先が心配で死ねない」と口にしていた。

当時東大生だった学生たちが70歳代になり、多くは宿題を持ちながらも好々爺となり、取材を受けている。それでも地球はまわっているのだ。

あの教室では予想に反し、いがみ合いの闘いや暴力はなかった。三島由紀夫の「個人が持つユーモア」と会場をうまく「取り仕切る才能」と「年配者としての思いやり」を終始感じた。映画で三島由紀夫に会えたのは貴重だ。

議論は喧嘩するためではなく、共通点を見出し、歩み寄るために行う。結論は出ずとも三島由紀夫が終わりに語りかけたように「この空間に言霊が飛び交い、残った」

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