真夏の少し怖い話

今年の夏は特別に暑い、熱い。
怪談を書いてみよう。
遠い昔の実話です。

その頃私は忙しい会社員生活を送っていた。
夕食も終えて、ゆっくりとソファにくつろぎ、ぼんやり考えていた。トピックスは流れる雲の如く浮かんでは消えて行く。

その中で「私は何者だろう?」とふんわり考えていた。

すると電話が鳴った。もう夜11時を過ぎている。こんなに遅く電話がかかってくことは稀だ。イタズラ電話か間違い電話だろう、と思いつつも、受話器を取った。

電話の主は、名前を名乗るでもなく、相手を確認するでもなく、いきなりこう話しかけた。

「私が誰だかわかる?」

そして私の返事を待たずに、すぐに電話は切れた。少し微笑みを含み、いたずらっぽい声だった。

静寂の中、取り残された私は声の主は誰だろう、としばし考えた。男性か女性かわからない、こもった声だ。聞いたことがない声。そして気がついた。

あれは私の声だ。

品格

「歳をとっても品を保つにはどうしたらいい?」
年若い知人が、質問してきた。

品について考えているとは意外だ。私は即座に横綱の品格を書いた記事を思い出した。
「嫌いな人にも礼儀よく挨拶ができるのが横綱の品格だと読んだことがある」「わかりやすいね」

私自身、古希を迎えてこのテーマは考えたことがある。
品格をどうとらえるかは、人それぞれの感じ方があるだろう。辞書を引いても抽象的な説明しかでてこない。

気品ある弁財天像、カメオ
弁財天像、カメオ

見かけから感じる品の良い人もいる。
人間関係やコミュニケーションの中でいえば、品を保つとは、「相手に恥をかかせないこと」と歳を経て感じる。これは実践しようとするとなかなか難しい。反対意見をどう表現するか。相手の意見を否定することなく、相互理解に導くにはどうするか。

第三者が聞いていても嫌な気持ちにさせず、相対する人に恥をかかせずに、喧嘩したり、議論できる人は品格がある人だと思う、と私見を伝えた。

パスポート (3)

空を飛んだ夢をみた経験のある人は意外に多いと聞く。現実の体験と夢の関係。これは学問的に細かく体系づけられていないので、雲をつかむような話だが、海を超えた人が空を飛ぶ夢を見ることは多いと思う。それはまた現実となるかもしれない。一生の間に1回しか海を渡らない人も、何回も往復している人もまた思い出すのである。あの感覚が帰って来るのである。自分は旅人だったと。

その時はもうパスポートはいらない。法的な手続きも夢の彼方へ押しやられたように。ふと足元を見ると大地が見えない。大海原が広がっているが怖くはない。足の力は抜き切っている。ただ浮かんでいるようだが、先に進もうとすると進み終わっている。どこに力が働いているのだろうと思った瞬間、力は前を走っているのに気がつく。自分を動かす動力が自分の前に広がっている。その中で力を抜いた自分が力まかせに動いている。不思議なことに目の前の力にまかせているのに、自分の意思とぴったり一致している。とても気持ちが良い。

こんな世界を体験したら、人はどう変わるだろうか。

 

 

パスポート (2)

陸路の旅と違っている点は、足が大地から離れるというところにある。長時間足が大地から離れる経験をするには、海を超えて海外に行くしかない。足が大地についていない状態は、昔、そして大昔は考えられなかった。船と飛行機の発明により、人間はこの体験ができるようになった。この新しい経験が人類に与えたものは大きい。それは単に便利さだけではなく、感覚の世界にも影響を及ぼした。自分は旅人だったという感覚は、旅が終わると同時に消え去ったように思えるが、それは後に続く日常生活の中で顔を出す。

「私は地を離れた。いっときでも地を離れた。今ある生活は地についた生活だが、また再び地を離れる時がくるだろう、そして羽ばたくだろう。渡り鳥のように」
ある人はこのように考えるかもしれない。

多くの人は海を渡った経験は忘却の彼方へ押しやり、こんなことは考えないかもしれない。少なくとも本人は認識しないだろう。しかし寝ている時はどうだろう。空を飛んでいないだろうか。

 

パスポート (1)

日本国民のうち、どのくらいの割合でパスポートを所持しているのだろう。これは統計を調べればすぐわかるだろう。すでに無効になっているパスポートもたくさんあるだろう。現在有効のパスポート所持者の数はわかるのだろうか。これは日々変わる統計なので、記録していないかもしれない。しかし私は少し興味を持った。現在どのくらいの人が外国に行ける可能性があるのか、最大数がわかる。パスポートを所持していなければ、外国へ行きたいと願っても法的に不可能である。

日本人が海外に行く場合、必ず海を超えなければならない。言葉が示す通り海の外に出るのである。外国の人にとっては島国でない限り、陸路で行く外国もある。海を超えないで行く外国を持つ国は数多い。海を超えて他の国に行く、この体験は貴重なものである。一生この体験をしない人々も多いが、この体験を経験するとある感覚が生まれてくる。これは蘇ってくると言ったほうがいいかもしれない。その感覚は自分は旅人だったという感覚である。海を渡ることにより、渡り鳥のように旅をする自分を感じるのである。

絵に描いた餅

「絵に描いた餅」と聞いた時、餅の形はどんなふうに想像するだろう。
いちばん多いのが、お正月のお供えの段々重ねの餅だろうか。
ある人は長方形の切り餅を思うかもしれないし、自分の好物のみたらし団子を考える人もいるだろう。おそらく形からすぐに餅とわかる、美味しそうな絵を描くだろう。中には何も描かずに餅の一部を表現しました、という人もいるかもしれない。

実はこれは私が描く餅の絵である。餅の輪郭は絵の外にある。そのような絵が可能なのもふつうの餅は白紙と同じ白色だからだ。この場合、絵に描いた餅は形がないとも言える。絵に表現したとしながら、その形は見る人の想像に任せるという、不思議な絵になる。

一般に「絵に描いた餅」は食べたくても食べることができない、すなわち役に立たない、現実のものでないこと、という意味で使われている。ここに今一つ別の意味を加えると、どうにでもなる存在、という定義はどうだろう?

自由自在になる、しかも形まで自由にできるもの。ふつう自由になるのは形以外のものだが、絵に描いた餅はその存在の輪郭さえ自由になる代表として考えてみた。そのような具体例が他にあるのだろうか、と思われるかも知れないが、この餅は万人が持っている餅とも言えると思う。

絵からはみ出た輪郭は一人ひとりが想像してよい部分である。
それを毎日行いつつ人は生きてる、と言えないだろうか。

宗教 (2)

現存の宗教を切り離して考える。自分たちの問題を考える。様々な問題を突き詰めると神の存在が見えてくる。宗教を洗い直して神が見えてくる。

神の問題は世界各国で、昔から長く長く横たわっており、人間が長くかかって問題を解く。

どうして宗教の数が多くなったのか?
人間は宗教が好きな結果、多くの宗教団体を作った。人間が作った宗教は人々がその存在を思わなければ、自然消滅する運命にある。今は宗教がごまんとある。

目に見えないものは神様以外にごまんとある。多くの人間は問題を解決するために、目に見えないものに何かを感じて宗教に走る。そのうちにごまんとある宗教が整理される時がくる。人は立ち止まり考える。人々は知恵を借りあって多くの問題を解決する方向にある。

神に向くには技がいる。知恵がいる。目に見えないものに頼っていくときが来る。自分の中の資源に頼るようになる。まず他人のものを使って、それから自分のものを使おうとするのも人間。外のものがなくなると、あるいは外のものに頼れなくなると、自分の内にあるものに目を向ける。

「外のものを取り去って考えてみなさい」と神が言われているようだ。
神は人間から外の資源を断ち切り、人間の持つ内なる資源を使わせようとしているのかもしれない。

宗教 (1)

宗教のカテゴリーにおいて、今は神に関係のない宗教団体が多くある。宗教はしばしば人々に良いイメージを与えないことがある。宗教が多く発生し集まれば、宗教に対して人々がそれぞれに違った受け取り方をする。

宗教は元来、神から与えられたものであるが、現在は人間が作り出した宗教がめじろ押しだ。今の宗教は人の中に収めてしまうことのできる、小さな教え。神が与えられた宗教の姿は、人の身に収めきれないほどの大きな教えだ。

その教えは、神の教えの代弁者のようにざっくりしている。本来の宗教は人知を超えたものでないといけない。過去、現在、未来を教えたものでなければならならない。神が見られたことをこっそり人に教えられるのが、本来の宗教の教えだった。

「宗教を語る」というテーマがあるが、神を語る人はほとんどいないのが今の状態かもしれない。神様抜きで宗教的なお話をしている。宗教を論ずる人は多い一方、自分と神の関係を考える人は少ない。これは大きな矛盾である。「宗教と自分」について考える人は「神と自分」について考える人より多い。宗教と自分を考えることは自分の内的成長にとって少しの助けにもならない。

宗教のことを切り離して「絶対的な存在と自分」について考える時が来ている。これは良い兆候と言える。

筋子を眺めて思う (2)

分子はお互いにピッタリとくっ付くことは出来ず、必ず球と球の間に隙間ができる。そのスペースは一つに繋がっている。「残り物には福がある」とは、日本古来からの表現だが、物質をかたち作っている分子以外の残りの場所が、目に見えない神の場所だろう。どんな物質にも分子以外の場所がある。

地球も、一つの球だ。それを一つの分子と考えたら、宇宙空間は神の場所で、地球を一つの分子とする巨大な有機物質が広がっているとも言える。巨大な筋子だ。分子も極微粒子のものから、地球の大きさまであり、大宇宙を構成している。いやその大宇宙がまた一つの分子となっているかもしれない。

筋子を眺めながら、私はこのように考えて、人間の存在の有り様を思うのである。

筋子を眺めて思う (1)

筋子は鮭や鱒の一腹の卵だ。すずこともいう。イクラは筋子をほぐしてバラバラにした卵。この筋子とイクラを眺めると、物質を構成している分子の模型のように見える。

イクラは一粒一粒離れている。筋子は一粒一粒が筋で繋がっている。すべてのものはバラバラで存在することはできない。筋子とイクラは、誰でも目に触れることができる、物質の分子模型を示している。

人間も単独で行動しているように見えても、存在し続けているためには複数が繋がっており、しかも他の思想、意識、意志、魂と目に見えないところでも、意識するとしないに関わらず、繋がりを持っている。自分の意志は筋子のように天の意志にすっぽり包まれている。

分子といえばその形は丸い。どんな形の生物体も、細菌からゾウに至るまで、それを形作っている分子には角がない。また無機質である四角いテレビ本体も粒子から成り立ち、その画面はよく見ると丸い粒子が集まって映像を作っているのがわかる。

Translate »