家庭内に流れる歴史とその政治

家政科と言う学部がある。現在、家政学部は人気がないようだが、家を政治することと国家を政治するのとどちらがやりがいがあるかと言うと、家を政治する方が大事だ。

家政は一場面、一場面が大事になる。自分の子孫に関わってくる。国の政治は多くの立場の人々の調整が主な仕事だ。他人のことである。家政は直接自分に関わることで、国の政治より家の政治の方が実はやりがいがある。国の政治では功績を上げれば、個人、または団体の名が残る。国の政治では一つの時代が始まり、そして一つの時代がその時々で終わる。

家の政治は幕が下がれば、また上がるのである。家政の楽しみ。この世に体がなくなっても、自分の残像を残すことになる。この残像は政治家の残像とは異なる。家の残像はまた蘇ることのある残像。家の面白さは世々受け継ぐところにある。祖先の残像を持つのが家。

古い人は新しくなるので、古い人も大事にしなければならない。新しい大事なものに生まれ変わる。無気力なものを残像の中に残すと新しい人が生まれる時にその無気力な残像が入ってしまうこともある。

しかし、過去の良き主体性は、縦横無尽につながることができる。過去、現在、未来は縦横無尽に流れている。人々の記憶、残像は現在に現れ、未来にも投影される。大きな一つの流れである。川が流れている限り、水は腐らない。川上の水が川下に流れ、海に合流するように、過去の出来事は淀んでいない。過去は未来に現れ、また生きる。

公平な平等は縦横無尽に繋がっている。平等の世界が広がっている。

自然の欲求と隠れた欲求

人間には、食べたい、眠りたい、話したいなどの自然に出てくる自然の欲求と、神を求め知ろうとする隠れた欲求がある。この隠れた方の欲求を全部出し切ると、とても魅力的な人になる。輝いて眩しい人になる。

現代の人たちはこの隠れた欲求を持っている人が少ない。過去の時代にはこの欲求の魂を持っている人がかなり多かった。神を忘れたことで隠れた欲求の魂が薄れている。神を知りたいと願う欲求が強ければ強いほど、魅力的になり、芸術家は永遠に続くと思われる芸術作品を生み出す。音楽家は不朽不滅の名曲を生み出す。

人間の一生の間で満足が行くほど神を知り得ないので、不満が残る。欲求不満となる。しかし、その不満は良い不満だ。悪い不満は膨れる。良い不満はある程度のところでとどまる。そしてあきらめて次につなげたいと祈る。

旅立ちの時のタカラ袋

人間は時の流れを変えることができない。

すべての人の願いを叶えることは不可能な時の流れ。

すべての人は時の流れに従順にならざるを得ない。

人生の終わりの時、気がついたら何も手に持っていなかったとわかる人。

すべてを経験し、すべてを所有したと満足に思う人。

傍目にはカラダ一つでこの世を去る。

そのカラダ一つに多くを入れる。人の形の中に色々のものを詰め込む。

荷造りは日々の生活の中で行い、旅立つ人々は終わりの荷造りをする。

旅立ちに何を持って行くだろうか。

カラダという袋の中に色々のものを入れるとお楽しみ袋になる。

自分が入れたものは知っていても、知らないものが入っている魔法もおきる。

自分の中にしまい込んでいたつまらないものが、永遠に役立つものに

変化(へんげ)する。

一つとしてつまらない世界はない。

究極の世界はみな詰まっている世界。

充満して丸くなるように、詰まっている世界は、

全体をやさしくおおう真ん丸い世界だ。

充実感を楽しむ魂

毎日充実感を感じることは難しい。工夫が必要だ。変わらない毎日を過ごしている人は、ことさら充実感を求めていない。いつも同じ心で日々過ごしている。充実感は後から感じることが多い。

充実とは限られた時間の中で、最大に近いことを行った時に感じる。たっぷり生きた気分になる。悪い要素は一つもない。人は充実感を楽しむことができる生き物だ。充実するのがいやな人はいないだろう。特別なことはせず、平凡に生きていても、普通に生きているだけで、充実感を感じられる人は最高だ。

ただ時間の流れで生きている人は、そんなことはどうでもよいと無気力になっていることがある。充実感を得るには、その前に意欲が必要である。意欲があるからこそ、充実が感じられる。意欲がなくなったら、ただ生きている状態に陥ってしまう。体は生きていても、魂は眠っている状態だ。充実感を感じるのは魂だ。

人は同じ生活を続けていると、意欲をなくすことがある。単調で安定した生活は意欲を奪う。学校、会社、社会的活動、家庭内で意欲を持ち続けるには、とりあえず次の三つの項目を考えてみよう。考えるだけでよい。意欲を持ち、それを維持するために助けになるためのチェックポイントになる。

① 若さ。精神的な若さ。
② 関心事を広げること。
③ 目標があること。

元気のない人はゆっくり休んで、自然回復を待つことである。リセットすれば必ず意欲が生まれてくる。そこから始めることだ。古いものを捨てることが意欲につながり、充実した気持ちで日々送ることができる。行動、日常は変わらないように見えても、心の充実感がプラスされる。それがいつも始まりのときであり、元気な状態だ。

私の意識は一人か、複数人数か、考えてみる

私は一人で、ふつう二人と思われていないが、目に見える私と目に見えない私がある。最初に存在したのは私で、次に体ができて私となった。体を有する私はもう一人の私であることに気づく。二人の自分があるので、人は選択に迷う時がある。植物は迷うことなく、光に向かって自然に伸びていくが、人間は躊躇があるので、まっすぐに伸びることはない。迷いがある、行きつ戻りつの人生である。

人間は、私だけの世界だけでは飽きてくるようにできている。自分に飽きると、あなた(他人)に向かう。あなたとの関係の中で自分を見るようになる。同時にあなたへの興味を持つと、世界が広がっていく。自分とあなたの世界は何十倍にもなる。

世界はタテの広がりができるので、ヨコの世界と合わせて何十倍にもなるのである。タテの世界は無限であるので広がりは大きく無限である。1+1=無限となる。1+1=2のヨコだけの世界は、行き詰まりか、元に戻ってくる。(地球の表面を考えてみてください。)

私とあなたの関わり合いで、あなたが同性の場合は、階段を上るような楽な通じ方をする。あなたが異性の場合、積み木を重ねるような工夫や苦労を要する通じ方になる。しかし成功すれば、やったと言う喜びがあり、それまでの苦労は一瞬に消える。

私とあなた。他の人間との関わり方では、「あなた」と呼ばれて、「はい」と答えるだけでは十分でない。「はい。何でしょうか?」の返事が好ましい。「はい」だけで終わるとそのあとに間ができて会話は止まってしまう。「はい。何でしょうか?」といえば、対応が続き、一人では思ってもみなかった新しい世界をタテに広げることができる。話を発展させるコツでもある。

私たちとは、簡単なようでむずかしい言葉だ。常に内容が変わっていく働きがこの言葉の中にある。

私たちは最低二人を指し、最高数は無限である。人間ばかりでなく、生きているもの、口のきけない植物なども全て包括することのできる魔法の言葉だ。

「私たち」と言う言葉を使うとき、人は「私」を持たないようにしている。終わりの頃、誰もが自然と口にする言葉になる

上下のバランス

上と下のバランスが取れていると平和で、物事は崩れにくい。親と子のバランス、上司と部下のバランス、経営者と雇用者、教師と生徒、牧師と信者などのバランスが取れていると組織内がうまく働く。

空路のバランスが取れないまま、飛行機が多くなると事故が多くなる。車の道路が多すぎると危険も増す。空路や地上の道路が多くなりすぎないように、自然が見守っている。道路が多すぎると、人間の血管が多くなるのと同じでキレやすく、事故が多発するようになる。

人間と土地の組み合わせも上下のバランスをつくる。バランスが崩れると人間は休んでしまう。寝込んで横たわってしまう。住んでいる土地が健康でないとその土地には病気が流行する。国土を愛する心、郷土愛などを持つことで土地をよみがえさせる。そして礼儀正しい振る舞いは見えない世界に影響を及ぼすことが大きく、健康になったりご機嫌を損ねたりする。

子供の頃の憧れや疑問、覚えていますか?

子供の頃から今に至るまで、心にある憧れや疑問はありますか?

ー 太郎さんは、家族が一つにまとまって楽しい生活を送ること。

ー 次郎さんは、仮想と現実を合わせて、こうなればいいな、と夢と妄想を描い
て、その中で生きてきた。

ー 花子さんは、小さい頃から自分の居る場所がないような、周りから浮いてい
るように感じていた。私は誰?という問いがずっと続いている。

人は誰でも裸で生まれて、身一つで出て行く。家、建物、現金、家族でさえこの世での一時的な財産だ。底をついてしまう。しかし小さい時から長く続いている思い、疑問は、「三つ子の魂、百まで」とも言われるように、死ぬまで続く財産で、それは底をつくことがない。

人に与えられているこの長く続く幼い時の憧れや疑問は、その人の生きる糧であり宝だ。そこからいろんなものが発生し、経験できる。人は他の人を見る時、顔立ち、服やその人の住まい、職業など目に見えるものを見る。

神様は裸の人間とその心の財産を見られる。人も神様と同じ目で周りの人々を見ることができる。そしてその人の人生が少し変わってくる。

自分を囲むインテリア、部屋

部屋はその人の心の状態を表している、とよく言われる。

部屋の中でいろんなことが起こる。外で起こることとはまた違った空間である。野外には空間がないが、部屋は仕切られているので、人工的な空間、小さな世界が作られる。境界線があるからそこは自分の世界だ。部屋の中で物語が起こる。人は囲いの中で生きているので、人間模様は部屋の中で起こる。いったんそこから飛び出せば、外の空気に触れ、人間模様は目に触れなくなる。人間は必ず囲いに戻るので、野生の人でない限り、また自分の世界に入らざるを得ない。部屋は大切だ。

部屋は物で出来ているが、空間も存在し、部屋が自分の体を包んでいるようだ。だからインテリア作りは人に重要な影響を与える。ストレスを軽減するためには、何をしたらいいか? いろんな提案がなされている。個人的にも集団でも社会単位でも、ストレスを減らすには環境美化、つまりインテリアの美化が有効である。

美しく生活するは、環境美化にも目を向け、体を清潔にするのと同様に部屋を清潔に保つことである。そして衣類で装うように、色の配色を考えて部屋を飾る。動きがスムーズになるように家具を配置する。物は自分から声をかけてコミュニケーションを取らないが、そこにあるだけで影響を与える。空気の流れも変え、色彩は光の波長の違いなので、目に入る影響もある。

本棚の書物も多大な影響を与えるものだ。たとえ読まなくても良書があると、それだけで良い影響を与える。本屋や図書館を訪ね、違った分野の棚の前に立てば、納得できるかもしれない。本の質は読んでも読まなくても部屋にあると影響を与える。良書には長い歴史を経て残ってきたものが多くある。悪書は廃れていく。

現代はコンピュータが置いてある部屋が多いだろう。パソコンは道具であり、電子社会の窓口である。たとえば電子本は書物と違って、置いてあるだけで良い影響を与えるとは言えない。本のストーリーを追ったり、調べたりと便利だが、電気がなければ消えてしまう運命にある。目の中に入る入り方も違う。有名人の手紙は文化的価値を見い出され、研究の対象にもなる。一方有名人のメールが後世、博物館に展示されることはないだろうと思われる。

インターネットの便利さと人間の不便さ

インターネットの世界で巨大ネットワークが急激に成長している。世界中の人が自らの意思で自分の個人情報や知識を載せ、作品や写真、音楽などを載せている。企業はプライバシーを大事にしている一方で、個人は実名でパブリサイズしている現象だ。

人は自分の居場所を選ぶことができる。今は多くの若者はパソコン、スマホの前が自分の居場所になっている。そこでの人間関係は多くの人を相手にしている。様々な意見を得ることができる。

パソコン、スマホとは関係なく生きている人もたくさんいる。その人たちの人間関係は少数の人々との接触だ。その特徴は長く、深く、簡単に切ることができない関係だ。

インターネットの中では、自分の欲しい情報を集め、意見を聞き、交流し、交際関係は簡単に広げることができる。そして同様に簡単に切ることができる。いちばんの方法は電源を切ればそれまで。簡単な人間関係だ。パソコン、スマホで知性や理性も磨き、広げることができる。有名人のブログ、インスタグラムで、素晴らしい人たちを身近に感じることもできる。世の中の進歩は便利に向かっている。

あえて不便の道を行く人はほとんどいない。人間は努力し、進歩していくが、人の一生は不便そのものだ。これはどうすることもできない。生き物は不便そのものだから。その不便さゆえ、良い人間関係を作ることができる。人間の持つ不便さを体験する余地も頭に入れておきたい。

感動する、五感を使って感動する人間関係は、便利で不便なパソコンやスマホ本体の外にある。あえて面倒な人間関係に挑戦し、その中に身を置くのも脳の発達には優れたやり方だ。喜怒哀楽、煩悩を出すことによって人間は成長する。ネットからの知識、情報で、人間の成長はできない。ある日、突然ネットが使えなくなっても、楽しく、他人と時間を過ごせるように、自分をトレーニングしておくことが大事だ。

ネットに支配されるのではなく、自分で便利さと不便さのバランスを決めることは決して時間の無駄とはならない。

神様とお金

神様とお金を結びつけたのは人間である。

神様は人間のいちばん大事なものを捧げさせたいと願われた。お金は人間が作ったもので昔から多くの人間にとっていちばん大事な存在であった。そしてお金のことは口に出さないで、心の中でああだ、こうだと考えるのが人間だ。神様はお金のことで頭を悩まさない。神様にとってお金は必要でない。山を作るのにも、谷を作るのにも、病気を治すのにも、お金はいらない。神様はお金そのものではなく、お金がいちばん大事なのにも関わらず、それを差し出す人々の行為と好意を受けられる。

しかし宗教法人が何らかの事業を計画する場合、相当額の資金集めが必要になることがある。そのような時、「献金すれば不思議とその金額と同じだけ戻ってくる」と具体例を交えながら説明する関係者がおられる。そういったことも起こり得るが、この前提は正しくない。神様にしても、あの人は百万円奉納した、この人は十万円、この人は一万円と区別して覚えておくのは大変だ。献金はなかったものとして捧げる、これが正しい姿勢だ。

厳密にいえば人間の持ち物は全て神様から借りているものばかりだ。ご奉納、献金、寄付金などはその一部をお返しするのだから、当たり前といえば当たり前の行為である。神様は借り物でない、人間自身の持ち物から何かを贈られれば一層喜ばれるだろう。

それでは、お金も衣服も食べ物も土地も家族も全て借り物であるならば、自分の持ち物とは何か? それは心であり、エネルギーであり、時間だ。これらは人間の持ち物だ。これらを神様に注ぐ人々は神様の目の中に入れても痛くない存在だろう。

具体的には自分に何がやれるのか? それは自分で気がついたことを行えばよいのだと思う。強制されずに自発的に行うことだ。他人から言われて行うのと、言われないで行うのと、同じ行為や結果でも雲泥の差であるのは、多くの人が感じるところだろう。求められないでも行うことが、行う方も受ける方も格段の喜びとなる。

「地獄の沙汰も金次第」といった表現もまかり通るこの世である。お金によって踊らされている人々も現実には多いだろう。踊らされているうちは動いているが、動けなくなった時、人間を動かしてくれるものはお金ではない。その時は目に見えないものがいちばんの助けとなる。

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