2日目は熊野三山の3個所を回り、階段の多い行程だ。
10時頃、最初の熊野本宮大社、大鳥居前に着いた。


大社は標高約115メートル
15分程で神門に到着し、境内の本殿が現れた。
五体の建物のうち、三体の社殿は明治22年の大斎原(おおゆのはら)の大洪水で倒壊を免れ、この地に遷座された。

平安時代の末より「浄土の入り口」として京都から皇族・貴族が熊野詣でをするようになった熊野三社。
人々から「よみがえりの聖地」と呼ばれている。それを実感できるエネルギーを感じた土地だった。

これまで体験したこと、今の生活を、ちさと姿の見えないタモツさんが語った言葉をつづります。
2日目は熊野三山の3個所を回り、階段の多い行程だ。
10時頃、最初の熊野本宮大社、大鳥居前に着いた。
15分程で神門に到着し、境内の本殿が現れた。
五体の建物のうち、三体の社殿は明治22年の大斎原(おおゆのはら)の大洪水で倒壊を免れ、この地に遷座された。
平安時代の末より「浄土の入り口」として京都から皇族・貴族が熊野詣でをするようになった熊野三社。
人々から「よみがえりの聖地」と呼ばれている。それを実感できるエネルギーを感じた土地だった。
一度はお詣りに訪れたかった世界遺産の高野山と熊野古道。
キャンセル待ちで3月14日から2泊3日のグループツアーに参加することで実現した。参加者は1台のバスに26名で2台になった。
出発の前日の13日からは、政府の決定により、コロナ予防対策のマスク着用が個人の自由となった日だ。旅先での制限も緩くなった。
出発時間は9時30分とゆっくりだった。1日目は、羽田空港から伊丹空港まで移動し、黒潮市場でランチ、その後も紀伊半島西側の景勝地の海岸に寄りながら、宿泊先ホテルに到着した。
白崎海洋公園、石灰岩
2日目の朝、国宝の犬山城に行くことを決めた。
名古屋駅から名鉄線の特急ミュースカイに乗車し、約25分で犬山駅に到着だ。駅からの道は碁盤の目のようでわかりやすく、ブラブラ歩いて10分もかからない所に城下町通りが続いていた。
通りは多くの若者が点在するファストフード店近くで集まり、休日を楽しんでいる。コロナ前の賑やかさが戻ってきているそうだ。私はうなぎの寝床の町屋、旧磯部家住宅を見学した。ランチタイムでは、守口大根の奈良漬専門店の精進料理を頂く。
犬山城は木曽川の近くに築城されており、急な4階まである狭く急な階段は十分に昇る価値があった。この階段は1580年代に建設され、現存する天守の中で最も古いそうだ。
天守閣の廊下をぐるりと一周して眺める景観は貴重だ。動画に全景を収めた。悠々と流れる薄いグリーン色の木曽川が美しい。昔、高山へ行った時の車窓からの木曽川のエメラルドグリーンの水を見て感激したことを思い出した。
2月22日、天皇誕生日の23日と1泊で、ブラリ名古屋の気になる名所を歩いた。
新幹線の名古屋駅に到着し、そのまま名鉄線に乗り換え神宮駅で下車。駅から数分の場所に約19万平方メートルの「熱田の杜」が広がっている。
現在の本宮は平成21年に造営され、尾張造から神明造に改められた。ご祭神の熱田大神は、三種の神器の一つ、草薙の神剣をご神体とする天照大御神だ。
本宮は撮影禁止の神聖な場所。お詣り時間を長く取るため、本宮を囲む散歩道を一周した。30分くらいだが、途中古い建物が点在して歴史を感じさせる。
神宮境内の「くさなぎ広場」でゆったりと名物のキシメンを頂いた。市民や参拝者のいこいの場所になっていることを実感した。
2022年2月24日、プーチン大統領の宣言によりウクライナへの攻撃が始まった。一年以上も残酷な戦いが続いているのは信じられない。
昨夜、日曜日のNHKスペシャルで「スクープ・侵攻72時間大統領側近明かす内幕、ゼレンスキー暗殺計画ロシア軍大いなる誤算」を視聴した。
進軍後2日で終わらせたかったプーチンはウクライナ軍や市民からの予想外の強い抵抗にあった。なりふり構わなくなったロシア軍はチェルノブイリ原発廃炉地域を占拠し、冷却用の電気を破壊しようとした。兵士達は危険性は何もわかっておらず、放射能を浴びながら食事をしていた。
戦時下では市民を襲うのは国際法違反なのに、混乱の中で犠牲者は男子若者はもちろん子供、高齢者、女性、すべての国民におよぶ。
欧米諸国はゼレンスキーに首都キーウを脱出して遠隔地での指揮を勧めた。しかし大統領および側近たちは現地で戦い続けた。戦争では敵の提案を受け入れないことで犠牲者は増え続ける。大統領の精神の強さと無念さを痛感させられ、その後夢の中でも祈った。誰もプーチンを止められないのなら、天罰は下らないのですか。
1月23日、旅の4日目の朝、ホテル出発は9時30分とゆっくりだ。
玄関には親近感を感じる横浜Fマリノスへの歓迎ボードがあった。
今日は宮崎県日南海岸のドライブ。午前中は海岸線を北上しながら、内海にある道の駅フェニックスから波状岩、遠く広がる太平洋を眺めた。
ランチタイム前に青島に到着し、風が強い中、周囲1.5キロの青島を散策した。隣接のボタニカルガーデンでは温室の中で種々の大型の熱帯植物が元気よく育っていた。旅の記念にそてつの苗を購入、育ててみることにした。
帰路は再び鹿児島空港に戻った。空港から近い河内源一郎商店で麹工場を見学し、旅の最後の午後はゆったりした行程で進んでいった。
3日目の朝、鹿児島湾に昇る朝日を拝んだ。
指宿市を後にして薩摩半島を北上し、午前中は鹿児島市内見物だ。まずは城山公園展望台に登り、白煙をたなびかせる桜島を4キロ手前から臨む。1914年の大噴火で元々島だった桜島は大隅半島とつながった。
鹿児島県本土は約3万年前の巨大噴火で平均約60メートルの火山灰(シラス)で覆われ、水はけの良い台地となった。さつま芋などの畑作や牧畜に適している。
ランチタイムは市内繁華街や公園を散策した。鹿児島の西郷どんは軍服姿だ。ご存じ上野の西郷さんは愛犬を連れた着物姿。上野の西郷隆盛像は、高村光雲の作品、今度ゆっくり鑑賞したくなった。
午後は龍門滝を眺め、早めに宮崎市のシーガイヤリゾートに到着した。昔は新婚旅行のメッカ、今はプロスポーツ選手の定宿に利用されることも多い宮崎市のランドマーク。地上154メートルの広々とした室内外、ゆとりに驚く。
昼食後、知覧を後にして、九州南部の枕崎市方面に向かう。
午後最初の訪問地は釜蓋神社。釜の蓋を数メートル頭に乗せて祈願するというユニークなお参りをする。近年スポーツ選手がよく訪れるそうだ。
次に「伊能忠敬先生絶讃の地」の石碑が建つ番所鼻自然公園、本州最南端の駅西大山、池田湖と海岸線をドライブ。宿泊地、鹿児島湾が目の前に広がる指宿市に到着した。
西大山駅では枕崎から指宿市へ向かう14時34分の列車がホームに入ってきた。その前は9時11分なので5時間20分の待ち時間。電車はめったに来ない。
2日目は、霧島から鹿児島空港を通過して、薩摩半島の南方面に向かう。午前中の訪問地は南九州市にある知覧特攻平和会館だ。
この記念館はかねてから、私の父親や職場の上司が驚きを持って感想を話していた。一度訪ねたかった場所だ。
現在の日本の繁栄の陰には、終戦の1945年、戦況が険悪になる中、1036名の純粋な若い命が、沖縄戦で爆弾を積み、特攻出撃した歴史がある。10代終わりから多くの20代初めの若者らは純粋な精神を携え、生き抜き、海に散った。
展示物の両親、兄弟に宛てた筆書きのたくさんの手紙、遺書、遺品。達筆で書家がしたためるような書や文面を見ると、少年飛行兵や特別操縦見習士官らの姿や心がその場でよみがえる。少なくとも2時間くらいは滞在したかった。
1月20日から3泊4日のグループツアーに参加した。
羽田空港での搭乗手続きを個人で行うのは初めてだ。勉強はもう始まった。
今回も南九州方面の修学旅行を期待している。
鹿児島空港に降りて午後一で向かったのは朱塗りの霧島神宮、令和4年2月に国宝に指定された。社殿は540年高千穂峯近く背門丘(せとお)に建立された。その後の度々の噴火炎上で、今から五百年前に海抜五百メートルの現在の社地に御鎮座された。晴れた日には遠く桜島や開聞岳が眺められる。
途中の車窓から、そして到着した宿泊地のアクティブリゾーツ霧島からも高千穂峯、新燃岳、韓国岳(カラクニダケ)の霧島連山がよく眺められた。岩の露天風呂では朱塗りの小さな鳥居から源泉が流れており、霧島に来た、と感じた。