戦争と平和

過去に多くの人が「戦争と平和」の課題に取り組み、努力し、祈ってきた。
その間、いろいろなドラマがあっただろう。平和を得る代わりに得たもの、それは希望であったり、絶望であったり、友情であったり、苦しみであったりだった。過去の人々成果を享受しているのが現在の状態だ。

平和を語るとき、ある人は何らかの躊躇を感じると思う。
そんな柄ではないと思う人もいれば、気恥ずかしさを感じる人もいるだろう。公然と平和運動をする人以上に、密かに平和を願っている人々大勢いる。平和祈願をする人々の中には、宗教者もいれば、子供もいる。現状が少しでも嫌だと思う人々は、すなわち広い意味で平和を願っていることになる。

「戦争と平和」という一組の言葉があるように、戦争ない状態が平和であると考える人もいる。事件が起こらないこと平和と思う人もいる。

Painted by H.T.

私はこう思う。いまだかつて世界に平和が訪れたことがあるだろうか? 答えは否。いつもどこかで争いが起きている。悲しんでいる人がいる。正しくない規則に縛られて生きている人がいる。

全世界が知らなくても、絶えずどこかで問題が起ているその争いの連続が人間の歴史を作ってきた。平和の時代であれば、歴史の記述者は困ってしまうだろう。書くことがないのだから。

平和を願う者の突き詰めた思いは、すべてのものが一斉に平和である状態」だろう。日本の平和だけを願う者、あるいはアジアの平和を願う者、特定地域の平和を願う者は、真の平和主義者の一歩手前にいる。全体の平和を願う者だけが祝福されるのだ。

政治家に関して言えば、今の地球上を見渡すと、誰も全体の調和ある平和を望んでいないようだ。かつて平和に対する正しい理解を持っていた人も、一度政界という世界に組み込まれると、小規模平和推進者にならざるを得ない。それが今の政治家の役目であるからだ。

すべての政治家は防御態勢に入っている。一見、他国を攻撃しているように見えてもよく分析してみると、それは防御のための攻撃なのだ。現在の戦争も防御のための戦争だ。

一体何をそんなに防御しているのだろう。そんなに守るものがあるのだろうか? 人にも当てはまることだが、国家も防御するものがなければ、攻撃もない。防御するものを捨てれば、攻撃は免れる。シンプルな理屈だ。

註:「眼(あい)天使が語った道しるべ」
2020年電子書籍より。

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