究極の読書 (2)

このことから言えることは、読書した後が大切だ、ということである。読書した後に意識的に考えることをしないと、読んだ内容に対して、感情的に反応しただけということになる。感情的に反応したことは身にならない。多くの時間を割いて読書に没頭し、知識を得ても、その後の思考過程がないと無駄になるということだ。単なる娯楽、個人の趣味で終わってしまう。

究極の達人の読書は、まず本を取り出し、表紙を見て内容を考える。第一ページを開いて、次のページを想像するといった具合に読み進む。速読はできない。考えながらの読書であるから、考えないうちは、次のページに進めない、開けられない。しかも考えが正当な時だけ次のページに進めるという、ゲームのような読書方法である。

しかしこの読書方法の優れている点は、無駄な読書が皆無というところにある。読み終わった時の充実感は計り知れないものがある。自分で考え出した本のようだ。本を物にすることができる。これこそ究極の本物の読書の姿だろう。

究極の読書 (1)

本の好きな人を読書家という。
本を読まないが本が好きな人もいる。この場合は読書家というより、本愛好家とでも呼べるだろうか。

本はどこにでもある。あの世にもあるだろう。読書家は退屈しない。読書が好きな人は本なしでは間が持たない。本なしでは有意義な時間を過ごせないと思う。自分の頭だけで考えるには限界がある。自分の考えを発展させるためにも、本の助けが必要だと思う。

読書している間は、自分の考えはさておき、本の中で筋を追っていかねばならない。時には、本を読み始めた後、さほどのめり込めない時や、興味を持てないまま読み進んでいることもあるだろう。このような時、自分の考えで、つまらない本だと判断しているのではなく、心で判断している。自分の考えはさておいて、読み進んでいる。本の内容について反応しているのは心である。

いやそうではない。自分が頭で考えながら読んでいるのだ、と言われる方もおられるだろう。それは確かに思い違いである。人間は本を読んでいる時は、その内容に付いていくために脳の一部を使っているが、思考するための部分ではなく、字を認識するための部分を使い、あとは心の働きがされるだけだ。自分の考えの出番は読書から離れた時から始まる。本の内容に対して、思考で反応する。読書中は心で、感情で反応している。

手の働き (2)

手には裏と表がある。足にも裏と表があるが、手ほどはっきりしていない。普通、手のひらが裏になるが、実質的に考えれば、手のひらは表である。手相があるのは手のひらで、そこにメッセージがある方が、手紙の文面と同じく、表である。

手のひらが平らになるのも面白い。平らになるので音が出せる。敬礼もできる。手が曲線しか作れず、それで敬礼しなければならないとしたら、その場の空気感も違ってくる。直立不動の姿勢の中でも、手の働きは重要だ。手がまっすぐ伸びていれば、直立不動の気が失敗なく、見ている人の側に伝わってくる。敬礼、直立不動などは、軍隊、自衛隊の人でもなければ、普通の大人は縁のないポーズであるが、見る側として共通体験をできる。まっすぐの気が伝われば、両者が体験者になり得る。

かくも魅力的な働きをたくさん持っている手である。私にも見えない手があるが、これを奥の手と呼ぶ。自分だけが知っている手である。

手の働き (1)

手。人間の手をしげしげと見つめると、まことによく出来ている作品だ、と思う。五本の指、それぞれの位置、長さのバランス、全体の形、等々。私は手に現れる人間の内面の感情を見るのが好きだ。何故ならば、醜い手の表情がないからだ。

顔の表情は時として、抱きしめたいくらい、素晴らしい表情を作る一方、正視に耐えられないくらい、意地の悪い表情も作り出す。その素材は、目、口、眉が主なものである。手と同じく五つの部位で作り出す。

手の表す表情で一番多いものが、恥ずかしさ、落ち着かなさ、緊張感などであろう。その次は、断固たる決意、例えば、こぶしを握りしめてやるぞ、という意気込み、絶対に負けないぞ、と頑張っている最中の表情であろうか。手を打って嬉しさを表現する人もいる。手をたたいて喜ぶ。反対に手を握って悲しみ、辛さ、悔しさに耐えることもあるだろう。手は道具を操るばかりでなく、情緒面では、逆に手が道具になって見えない感情を表すことができる。

すべてのものは声を持っている

すべてのものは声を持っている。
聞こえる声もあれば、聞こえない声もある。
植物も声を持っている。
動物、鳥、魚、昆虫、石、机、椅子も声を持っている。

声はそのものを超えた存在だ。
良い声もあれば、悪い声もある。
悪い声は不調和音だ。調和する声は良い声だ。

ふだん黙っていても、非常時には声が出る。
病で話せない人も、まさかの時、人の耳には聞こえなくても、
彼の声なき声が天に届く。

声は偉大だ。
声を出すことで、天に通じるから。
無言の祈りも天に届けることはできるが、
とっさの声はそれに勝る。
非常ベルとなり、何はさておいても天に届く。

買い物、お金、本物を持つ (2)

お金持ちが物持ちであるとは限らない。最近はお金持ち貧乏が多くいないだろうか。お金はあっても本当に必要なものは持っていない人。本当に必要なものは、人によって違うだろうが、人間に共通して必要なものを持っていない金持ちも多い。

それは人間として必要なもの、本物を持つことである。他の動物は本物を所有することにこだわらない。人間だけが本物を持てる動物なので、それを持つべきだ。本物とは何か? 本当のものとは、決してすたれないもの、いつまでもあり続けるものだ。よく言われるように本物だけが最終的に残る。

人は死ぬ時は何も持っていけないが、本物だけは一緒に持って行ける。偽物は幻影のようなものだが、本物は実体があるのでいつまでも消えることがなく、それを所有した人の付属物になることができる。

本物を持つことは趣味ごとではなく、必要なことである。長い人生の中で、一つくらいは本物を持たなくては、その人の人生自体、幻影のように何一つ残らないものになってしまう。

買い物、お金、本物を持つ (1)

買い物とは言わずと知れた、お金を払って品物をもらう行為である。お金を消費する行為だ。お金だけを消費するわけにはいかない。代わりに品物がついてくる。お金だけ消費したい人は、どこかに寄付するか、贈り物をするしかない。

お金を消費することで、精神が安定することがある。お金を貯めることでも精神が安定する。反面、お金を消費して不安定になることもある。お金を貯めても、まだ蓄えとして足りないのではないかと、不安になることもある。お金の消費は一種の精神への刺激となる。良くも悪くも働く。

お金は人間が作り出した便利でや厄介なものである。精神によく働いた場合、お金は喜び、またここに来ようと思う。悪く働いてしまった場合、お金は恐れ入って、もう来たくないと思う。お金はとても正直者だ。

お金は嘘をつかない、頼れるのはお金だけだと、お金を賞賛している人は多い。好かれているうちは、お金も気持ちよく働き、留まるが、自由がなくなるともっと動きたいと思う。お金は生き物だから、長い間留まっていたくない。長い間留まっていると、お金はお金でなくなり、ただの紙切れになってしまうことを知っているのだろう。

お金は最近はその姿を見せずに数字の記録になりつつある。お金は意志を持って走り出し、飛び回っている。他のお金たちと連携して、人間に協力しようとか、最近自分たちを粗末に扱っているので、反省の機会を与えようとか、言い合っている。

はじめに言葉があった

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」

これらの言葉は新約聖書ヨハネ伝冒頭の言葉である。この偉大な言葉は誰によって語られたのだろう。聖霊によってのみ語られた言葉だ。聖霊によって語らしめられた言葉は、永遠に残る。人間を通して聖霊が言わしめるのである。

多くの格言、名言も本人が気づかずして言わされている。積み重なる経験の結果の言葉もあるだろう。本人が体得した、目に見えないものを言葉によって表し、記録し、残すことができる。人の一つ一つの経験は忘れ去られるものであり、当人さえも覚えていられないが、言葉が経験から得たものを永遠に残す。

言葉は命の核となって生き延びている。

様々な言語が世界中にある。これはなぜだろう。一つの理由は民族間に距離を置くためである。遠くから眺め、考えるためである。適度の距離は、距離を縮めるために役に立つことがある。距離がないと、対峙しているものの全体が見えにくい。少し離れると、輪郭が見えて相手を理解しやすい。

言語の違いは相手の輪郭を掴むためだ。母国語のように中身を全て理解することは難しいが、輪郭だけなら簡単だ。外国語を習う人は輪郭を知るために学ぶことが大切だ。輪郭を知った上で、理解を深める。語学の取り組みも輪郭というカタチから入っていくと長く続けられる。

精神統一について (2)

例えばオリンピックはもともと個人の精神と深く関わっている競技大会であることはその起源を思い出してみれば異論はないと思う。「勝負を争うのではなく、参加することに意義がある。」とは有名なクーベルタン男爵の言葉だ。この是非はともかく、負けた人でも精神を十分に集中し統一できた人は、悔し涙に暮れることはないだろう。精一杯やりきったという満足感を持てるはずだ。

精神統一は、個人の力量であると同時に、外的要因に左右されることもある。それをうち消そうとしても、邪魔しにやってくる。かえって内部の邪魔より、外部からの邪魔の方が多いかもしれない。

世の中では精神を統一しようとした結果、精神を分裂させることもあり得る。
分裂した精神は、またふつうの状態に戻すことは可能だ。現在の医学では即効性のある療法は見つかっていないようだが、外から精神が自分の中の精神をコントロールしてくれる存在があれば可能だ。精神は精神を持って正す。

大精神に届けば、人の可能性が大きく広がる。神技も可能なくらい広がる。精神が自由に行動するのは知られていると思う。自分の中だけの自由ではなく、自分から外に出て行動できる自由だ。コントロールされるのを嫌う人間はそのために現在不自由な面もあるが、将来は逆に精神を大精神にコントロールされることにより、自由になることができる。そのための条件は、先ほどの「精神は精神を持って正す」という点だ。

精神統一について(1)

よく精神を統一するというが、これは精神を集中するとは異なり、後者の方がよく使われる。精神とは複数のものだろうか、それとも単数なのだろうか。精神を見た人がいないので、明確な答えはないが、統一するとは複数として扱っていることになる。集中も、人口の集中とか、問題が集中したとか、複数の数が散らばっているものが、人所に集まることを意味する。

それでは、精神とはなんのことだろうか。個人の精神もあり、団体における精神もあり、芸術の世界での精神もある。精神統一といえば、個人の内面的な働きを意味するが、精神統一をした結果、単なる一個人の体験以上の成果が得られることもある。神技に近いことが達成できることもある。

競技会では精神を集中するのがうまい人、精神統一のできる人が高得点を得られやすい。得点はどの競技にも共通して精神のコントロールの上手な人順に並んでいると言ってもいいだろう。その日の体調、環境も多少影響するが、いちばん影響するのは精神のあり方だ。体が不調でも精神のコントロールが上手な人はマイナス要因を克服できる。

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