4月1日。また巡ってきた。
今年はいつもと空気が違う。
垂れ込めている。人々の気持ちに加えて、今日は雨模様。
規則正しく動ける人は幸いだ。
不規則になっている人は災難だ。
その中でできること。
目を閉じて楽しいことを考えよう。
いつもスマホを見ている人、
ネットの中も空気が淀んでいる。
ニュースはコロナウイルスに占められている。
いつもと違う社会。
不安が勝っている。
こわいのは不安の感情そのもの。
不安から目をそらして、
目を閉じて楽しいことを考えよう。
これまで体験したこと、今の生活を、ちさと姿の見えないタモツさんが語った言葉をつづります。
4月1日。また巡ってきた。
今年はいつもと空気が違う。
垂れ込めている。人々の気持ちに加えて、今日は雨模様。
規則正しく動ける人は幸いだ。
不規則になっている人は災難だ。
その中でできること。
目を閉じて楽しいことを考えよう。
いつもスマホを見ている人、
ネットの中も空気が淀んでいる。
ニュースはコロナウイルスに占められている。
いつもと違う社会。
不安が勝っている。
こわいのは不安の感情そのもの。
不安から目をそらして、
目を閉じて楽しいことを考えよう。
人間は何をしている時がいちばん幸せなのだろう?
何をしている時がいちばん楽しいのだろう?
人それぞれ、という答えがまず帰ってくる。
何をすれば、多くの人が幸せを感じるのだろう。
何をすれば、多くの人が楽しく過ごせるのだろう。
現代を見まわすと、ただ行動している人は多い。
そんなことは考えずに日々暮らしている。
精神の高揚を体験することなく、淡々と生きている人々。
見方によっては、人も草木のように生きている。
日常生活の中での様々な感情をあらわしては忘れ、
あらわしては忘れの繰り返しの日々。
いつしかやって来る、老いの時代。あきらめの日々。
そんな人間のノスタルジア。
そんな人間世界のはかなさ。
楽しいことはいつか過ぎ去り、
苦しいことも時と共に薄れていく。
何かを求めて生きる人間が出会う何か。
何かが影響を与え、生き延びる魂。
魂の旅立ち。
人間ははかない。
人間は偉大だ、という人もいるだろう。
人間のはかなさはその上をいくのだ。
桜の花びらのように、降る雪のようにはかない。
消えていくものは、すべてはかない。
いつかは、実体がなくなってしまう。
思い出だけが残り、記録だけが残る。
今日の日は帰らない。
今日という日はかけがえのないもの。
今日を大切にしよう。
今日はいつ来るのだろう?
今日はいつ過ぎるのだろう?
時計の針が12時を指して境を決める。
本当だろうか。
私にとって今日だけが永遠への道のりの始まり。
昨日もない、明日もない、今日だけが連なって
永遠へと導く。
本当に生きている人は、過去に生きることも、
未来に生きることもしないのではないか?
今日を一番大切にしたい。
過去は現在を押し出すだけのもの。
未来も現在を助けるために、
人に夢をくれるためにあるのだろう。
過去も未来も現在の良き援助者であれ、と願う。
自分が知らなくても、絶えずどこかで問題が起こっている、その連続が人間の歴史を作ってきた。平和の時代であれば、歴史の記述者は困ってしまうだろう。書くことがないのだから。すべてのものが一斉に平和である状態が、平和を願うものの突き詰めた思いだが。
日本の平和だけを願う者、あるいはアジアの平和を願う者、特定地域の平和を願うものは、真の平和主義者の一歩手前にいる。全体の平和を願う者だけが祝福されるのだ。
政治家に関して言えば、今の地上を見渡すと、誰も全体の調和がある平和を望んでいないようだ。中にはかつては平和に対する正しい理解をしていたのに、一度政治界という世界に組み込まれると、小規模平和推進者にならざるを得ない。
それが今の政治家の役目であるからだ。
すべての政治家は防御体制に入っている。一見、他国を攻撃しているように見えてもよく分析してみると、それは防御のための攻撃なのだ。現在の戦争も防御のための戦争だ。一体何をそんなに防御しているのだろう。そんなに守るものがあるのだろうか?人もそうだが、国家も防御するものがなければ、攻撃もない。防御するものを捨てれば、攻撃は免れる。シンプルな理屈だ。
過去に多くの人がこの課題に取り組み、努力し、祈ってきた。
その間、いろいろなドラマがあっただろう。平和を得る代わりに得たもの、それは絶望であったり、希望であったり、友情であったり、苦しみであったりしてきた。過去の人々がやってきたことの成果が実りつつある現在だ。
平和を語る時、ある人は何らかの躊躇を感じると思う。
そんな柄ではないと思う人もいれば、気恥ずかしさを感じる人もいるだろう。
公然と平和運動をする人以上に、密かに平和を願っている人々は大勢いる。
平和を願っている人々の中には、宗教者もいれば、子供もいる。現状が少しでも嫌だと思う人々は、すなわち平和を願っていることになる。
「戦争と平和」という一組の言葉があるように、戦争がない状態が平和であると考える人もいる。事件が起こらないことが平和と思う人もいる。
私はこう思う。平和とは、異常な状態だ。なぜなら、、いまだかつて全世界に平和が訪れたことがあるだろうか? 答えは否。いつもどこかで争いが起きている。困っている人がいる。正しくない規則に縛られて生きている人がいる。
「戦争で生きたいと願っていたのに亡くなった人、すなわち、無念の死を遂げた人のことを思えば、今誰も可哀想でない、と思う。」
2015年11月30日に93歳で亡くなられた、水木しげるの言葉。
2007年8月12日NHKスペシャルで終戦記念番組「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」の中で、水木しげるがコメントされたのが上の文章だ。
思い切った表現が心に残り、メモしておいた。今回の旅でまた思い出した。
この時に「総員玉砕せよ!」「泉鏡花伝」「猫楠」など読み、改めて水木ワールドに触れた。
ホテルに戻るともう4時。空港へ向かった。
出発ロビーの天井を見るとクジラ船に乗った鬼太郎まんがのキャラクター達のディスプレイがある。何か見覚えがある?
数年前に購入したデジタル版画と同じデザインだ。
水木しげるさんが他界した時、デパートで敬意を込めて購入したもの。
クジラの肌の濃淡を表現する点描手法が非常に細かい作品だ。
これも出会い。
翌朝、6時過ぎに目が覚めた。窓を見ると全体に霞んでいる。珍しい赤い太陽が丸く浮かんでいた。朝食はコロナ感染防止のため、通常のビュッフェではなく、和食または洋食がプレートで給仕された。この朝からの変更だ。和食を選ぶと、納豆、おからの和物、筑前煮、明太子、卵焼き、地元の子カレーの焼き物、宍道湖のしじみのお味噌汁など。ヘルシーでボリュームたっぷりの朝食だった。
足立美術館へはホテルから3分くらいの久米町バス停から直行バスがある。
乗車時間は30分弱。10時前に美術館に着くと観光バスが2台入ってきた。しかし入り口を抜けると50人くらいの来訪者はだんだん見えなくなった。
手入れが行き届いた大小様々な庭をゆっくりと鑑賞。創設者の足立全康さん(1899〜1990) が目指した、横山大観が描くような絵画的な庭が続く。落ち葉やゴミなど一つもない。朝早いのにすでにスッキリと美しい。足立さんの精神に預かってこうして楽しめる。足立さんに拝礼です。広さは5万坪だ。館内には3ヶ所の休憩できるお店がある。
どのお店も客がいなくて寂しい、もったいない。私たちは寿楽庵と言う茶室に入った。窓は掛け軸状に二つ開けられている。昭和45年美術館創設の際、制作された記念品の純金の茶釜で沸かしたお湯を使って、お抹茶が出される。お菓子は「日の出前」と名付けられた羊羹。小豆と砂糖を何層にも練り合わせたと説明があった。口当たりがとても優しく、リッチだ。
床の間の書に注目した。「不風流処也風流」。
風流ならざる処また風流、と読むそうだ。禅語が収められている、中国の仏教書「碧巌録」からの言葉。
平安時代の書物で「風流」はここから始まったらしい。個人的に「風」は好きな言葉だ。すべてのものは風流だ…..。
足立美術館の庭は絵のように見えても日毎、季節ごとに変化している。風流だ。
市内めぐりの最後は寺町通り。小路(しょうじ)と呼ばれる昔風の道を通り抜け、寺町が現れた。400メートルの道に地方から移された九つのお寺が同じ側に並んでたっている。整然とした印象だ。門構えや庭のデザインも様々。その真ん中に位置するのは妙興寺だ。日蓮宗のお寺で米子城の功労者、横田内膳のお墓がある。
内膳さんは米子城に天守、御殿を設け、堀など城全体を整備した家老だ。そして城下町の町並みも完成させた才能あふれる武士だった。徳川家康から、甥の中村一忠の後見を託された。しかし米子城騒動で中村家の家来に志半ば、52歳で暗殺された。一忠もその後、20歳で夭折した。そんな伝説がある妙興寺だが、景観の気持ち良い庭だ。夕方になり、少し冷たい風が出てきた。
夕食時刻。近くの境港から水揚げされた松葉ガニの料理を扱う店を紹介してもらい、5時に予約を入れた。松葉ガニは山陰地方で水揚げされるズワイガニの別名。ホテルから自転車で10分くらいの純日本料理屋だ。部屋は椅子席にしてもらう。コース料理で焼きガニやカニすき、最後はカニ雑炊。初めての松葉ガニ料理のコースをありがたく味わった。
城山の山頂は標高90メートル。山頂に着くと左に島根半島、日本海、右側に遠く隠岐大山国立公園の名峰大山がハッキリと見渡せる。地図で見ると離れているのに大きく見えた。富士山に似た姿だ。米子は水も美味しく、城山付近は空気もフレッシュ、違いがわかる。水は大山を源泉としていると聞いた。
下山して再び自転車で創業200年の長田茶屋で休憩。ここで茶道具の展示を見ながら、お抹茶と茶箱羊羹を頂いた。洋風和風のスィーツも広く扱っている。お抹茶をお土産に購入した。
次のスポットもお茶屋さん。米子城の改築、維持に寄与した豪商の鹿島家が城のシャチホコを記念品として贈られた。庭に据えられていた。400年前の陶器で高さ92センチと大きな縁起物だ。鹿島家の町屋の内装は天井が非常に高く、横に伸びている神棚が印象的だった。
城下町米子は米子城と共に400年の町人の生活があった。特徴的なのは1609年に城主中村家が断絶し、家老の荒尾氏が預かった。以降は米子の商人たちが力を出し合って城の維持に努めた。城主なしの城下町で、移住してきた職人たちの気合、商人たちの自由な雰囲気と団結が続いてきた。