山下公園近辺を散策した

4月21日、風もなく日中の気温は23度と暖かな散歩日和。
日本大通りを通って横浜ユーラシア文化館を訪ねた。建物3階で「横浜中華街160年の軌跡」の企画展示があった。

中国の月琴、1940年頃

かわいい形の楽器を見つけた。

4階の横浜都市発展記念館にも立ち寄った。

横浜大震災、第二次世界大戦で焼け野原になっても、たくましく復興した横浜。その間、市民は寄席や歌舞伎を発展させ、舞台芸術を楽しんでいた。今はみなとみらいが「にぎわい座」として人々が集まって楽しんでいる。歴史を意識するとビルの谷間に昔の横浜村が重なってくるようだ。

陶器製ガスコンロ、昭和初期

戦時下の金属供出に伴い、陶器で作られたガスコンロは今見ると、珍しく、日本人に器用さ、対応のすばらしさを感じる。

富士山と2002年の横浜港

幾つかの横浜港の地図のうち、「吉田初三郎の横浜市鳥瞰図」は鳥瞰図絵師の第一人者、吉田が1935年に作成したもの。地図左手には下関、右手に明治神宮も描かれていて楽しい。1階のギフトショップで復刻版を購入した。

シルクセンターを過ぎ、象の鼻、山下公園と進んだ。

市民賞に選ばれた庭、山下公園

箱庭コンテスト作品がプロムナードに展示されており、いつもの景色と違う。人出も多く、皆、快晴の青空のもと、のんびりと庭園を楽しんでいた。

ピースサイン所感

母がベッドからピースサインをしている写真がある。
91歳で、おそらく「初めてのピースサイン」、母にポーズをしてくれるよう頼んだ。
本人の意思からではなかったが、今では良い記念だ。

若い世代、沖縄にて
若い世代、沖縄にて

私が学生の頃の1960年代、アメリカでベトナム戦争を反対して、ニコニコマークとピースマークがセットで流行った。日本にもすぐに文房具や雑貨に浸透していった。「スマイルのマーク」も「勝利と平和を示すピースサイン」も両方好きだったが、自分でジェスチャーするのは恥ずかしく絶対にしない、出来なかった。

しかし、母が2年前に他界してから急にピースサインを積極的にするようになった。
なぜだろう。写真を撮るときは、気持ちがリラックスして表情が緩むようだ。

ピースのジェスチャーと自分の気持ちが一致したからかもしれない。

ネットでチェックすると、有名な高齢の政治家や俳優も、好んでピースを出している。年齢に関係なく、心の底から「ひとり平和運動」もできるようだ。

「岡本太郎の旅」展を訪ねた

4月7日、かねてから興味があった、川崎の岡本太郎美術館の訪問を実現させた。「岡本太郎の旅」をテーマに10日まで開催されている。

母の塔、美術館を見下ろす
母の塔、美術館を見下ろす

小田急線の向ヶ丘遊園駅からのんびり歩いて30分ほど。道路が広く、途中から生田緑地の公園内に入るので、気持ち良く歩けた。

岡本太郎は1911年に生まれ、1996年85歳で他界、その3年後に養女の岡本敏子さんが美術館を開館させた。ほとんどの作品は川崎市に寄贈され、作品は公共の財産であり、身近に感じる。

「太陽の塔」1970、
 大阪万博のシンボル
樹霊 I、1970

入り口の池の中にそびえる彫刻「樹霊I」は1970年の大阪万博にて「太陽」の塔の地下に出品された。人間の根源的な感情、畏れと祈りを具現化した神像。

「森の掟」1950、岡本太郎

日本の神秘性に惹かれて、東北地方、沖縄、長野、島根、広島、和歌山の土地を旅し、本にまとめた。海外ではメキシコの旅で「人類のはじまり、生と死を意識する」きっかけとなった。

音読で脳と喉を鍛える

4月に入り、ルーティンを一つ増やした。
日本語と英語の文章を音読、録音してチェックすることだ。

最近、滑舌の衰えを感じていたところ、いつも見ているBSの「偉人たちの健康法」で菅原道真の勉強法を紹介していた。平安時代は中国の漢詩を覚えたり、音読していたそうだ。この音読が目で読み、自分の耳で聞き、脳を使って意味を考える、と同時にできる。

確かにいつもしている黙読は刺激が少ない。以前、声に出して読む日本語ブームもあった。録音すると緊張感と集中力が増して良い。

読み物は年度毎に出る「ベストエッセイ集」。未読であったので、初見で読むことにした。実際やってみると、見て意味がわかる単語でも、音読するまで時間がかかる単語がいくつも出てくる。もどかしい。しかし内容を知りたくて読み進みたい気持ちが出てくる。

番組では「アナウンサーの言葉を真似して言うと、無駄な言葉もなく、良いでしょう」とアドバイスしていた。これは内容が無味乾燥なので、継続しにくい。

世界のお伽話、
  Edmund Dulac

英語も合わせて音読し始めた。子供用の「世界のお伽話」が家にあった。その中で「ウラシマタロウ」を選んだ。難しい単語は少ないし、筋は有名だ。読んでいてそのストーリーが「現代社会のテーマをいくつも含んでいること」に改めて気づいた。音読にはたくさんの効果があることを実感した。

「旅立つ息子へ」 Here we are

3月27日、話題のイスラエル映画を観に行った。

「時間をくれ」父は別居中の妻に訴える。
この映画は田舎で暮らす父と息子の生活、そして自立までの過程を描いている。
息子は自閉症スペクトラムを患い、思春期を前にしているウリだ。実話である。

家族を介護する生活は、時間の流れ方が世間と違う。
映画の中でも、会話は短くゆっくりと進行する。父親アハロンは流行グラフィックデザイナーの職を捨て、結婚生活も二の次にして、弟夫婦との交流からも遠ざかっていた。「息子の生活は自分が看る、施設に入れるには今その時期ではない」と考えていたからだ。

周りは父の考えを理解しない、社会主義のイスラエルでは裁判所の指示やケースワーカーのシステムがよく整っている。無収入の父は四面楚歌、逃亡の旅に出た。その短い旅で息子は、世間に触れて新しいイベントやトラブルを体験した。少しづつ成長し、変化していく。旅の力はなんと偉大なことだろう。

一対一で真剣に向き合って介護する親の気持ちや喜び、自分ごとのように感情を移入できる映画だった。

三ツ沢公園でお花見

三ツ沢公園、池と桜

3月24日の朝、テレビは横浜の桜は本日満開と伝えていた。

以前会社員だった頃、桜の便りを聞いてもタイミングよく花見ができなかった。今は自由に当日ピンポイントで出かけられる。

三ツ沢公園はスポーツ総合グランドでテニスコートや馬場もある。桜の木々が点在している。近くに住む人達やスポーツに来ている人々がほとんど。全体的に人出は少ない印象だ。

馬場は50年以上前からある。

以前は会員制乗馬クラブだったが、今日案内を読むと、予約して誰でも利用できるようだ。

馬術練習場

 

ソメイヨシノ。幹は太くなり年代を感じる、変形した木も多かった。

三溪園のサギたち

3月17日午後、三溪園の自然を訪ねた。

三溪園入り口、サギの勇姿

入り口近くの池に、「これぞサギの勇姿」と言える大サギが一本足でたたずんでいた。

三溪園、子どものサギ

 

子どものサギ、カメと移動中

奥の池には若いコサギが小さな魚を求めて歩いている。数匹の子亀もその周りで、一緒に移動している。

三溪園、成鳥のアオサギ
ポーズを決めたアオサギ

茶屋の前に広がる池の正面に高齢に見えるアオサギが首を長く伸ばしながら立っていた。しばらくすると羽を水平に広げて飛び立って行った。

奥の方に歩いて行くと、周りに誰もいない橋の近くでじっとしている。カメラ用ポーズを決めてくれた。

三溪園の住民ネコ

帰るとき、受付近くの木陰で住民の茶ネコが寝ていた。🌳💤

没後70年「吉田博展」

3月12日、吉田博の淡い色彩の木版画を求めて東京都美術館を訪ねた。最近のアニメ作家も憧れる画風だ。

明治9年から昭和25年に生涯第一線で活躍し、74歳で他界した。作品の時代背景は今日から比較的近い(と考える)。

作品を鑑賞する前、個人的に期待したことは、光る海や川、滝などの水の表情。当時の生活の様子。世界中の国々を旅することを愛した画伯の風景画。

「瀬戸内海集 光る海」吉田博
  1926、絵葉書

会場にはまるでカメラで撮ったような自然風景が数多くあり、いかに一生の間、旅の先々で自然を愛でていたかがわかる。中国蘇州は私も旅した町、思い出す。

蘇州、吉田博(1940)、※作品部分

意外なことに戦後1945年以降は1枚制作しただけだ。ー 晩年の作品は「農家」ー。

吉田画伯は人物を得意としなかったが、この絵には農家の台所で家事をする婦人が二人描かれている。当時の何気ない日常のワンシーン。戦争が終わった後、平和を徐々に取り戻した1946年の作品だ。

農家、吉田博(1946)、フリー素材

奄美大島のポンカン

 

奄美大島のポンカン

前回、奄美大島で大島紬の工場で働きながら、画家の情熱を出し切り生涯を終えた田中一村について書いた。

近頃よく日常の中で「繋がり」を感じる。奄美出身の知人から島のポンカンを頂いた。奄美と一村を思い出す。

皮は硬くて手で剥こうとすると、スムーズにはいかない。コツはナイフで四つ切りにすること。これで、苦労なく丸ごと食べられる。

ポンカンは見た目は自然体、岩肌のような黄緑色も部分的に見えワイルドだ。中身は、香りよく、甘くてジュースを飲んでるようだ。来年はお取り寄せしようと思う。

ひなまつり、田中一村
(ハガキ、部分)

「田中一村展」、千葉市美術館にて

田中一村展、千葉市美術館

2月22日、千葉市美術館を訪ねた。横浜から直通70分で千葉駅、徒歩15分以内にある。モノレールで2駅葭川(よしかわ)公園下車でも近い。

2月末までとあって予約はいらないものの入場制限され、20分くらい列に並んだ。

細長い建物の7階が展示場。一村初期の南宗画、書画、掛け軸や個人像の式紙、金屏風、友人とやり取りした葉書、晩年まで19年過ごした奄美の自然画。毛筆の字も見入ってしまう。

2020年1月、奄美大島の田中一村美術館を訪ねた。1年振りの鑑賞の機会、一村は「日本の宝」だとシミジミ感じた。花鳥風月の画家だ。昔の民家と庭、花を添えて緑繁る葉っぱを主役にした作品が多かった。

晩年の作品、孤枩(こしょう)は特にシニアに静寂を与え、共感する。海の向こうの雲が「金色の龍」の形をしている、とはなかなか気付かなかった。

孤枩、田中一村(絵ハガキ)
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