絵本作家「レイモンド・ブリッグズ」

古い1冊の絵本「サンタのたのしいなつやすみ」が本棚にある。
久しぶりに手に取った。私が32歳の時、英語教室のアルバイト日曜教師を数ヶ月していた。再就職が決まり、仲間の若い先生達が絵本の後ページに寄せ書きを書いて贈ってくれた。

サンタのたのしいなつやすみ     1982年 篠崎書林

絵本は自分で買うことはなかったが、楽しい内容と絵が好きで、いまだに手元にある。サンタの生活が、理想の老後生活のようにも思った。

先日、作家が自分の両親について描いた絵本(グラフィックノベル)を出版したことを偶然知った。すぐにアマゾン電子版で「エセルとアーネスト True story」を購入した。

Ethel & Ernest, 1998

その後、2019年にこの本が映画化されたことをネットコメントで知る。懐かしいレイモンド・ブリッグズが現在も活躍している、イギリス国民に愛される代表的な絵本作家。エンディング曲もポールマッカートニーが手掛けている。

90分ほどのアニメ映画は、手描きで暖かい印象だが、第二次世界大戦前後の政治や階級社会が背景にある。無名のイギリス夫婦の普通の生活、迎えた老後。残された家族はただ受け入れるしかなかった。

母の三回忌を迎えて

母が令和元年5月に他界して2年たった。
快晴のもと親族10名出席の三回忌法要を無事に終えた。

母の晩年は、葬儀をとり行う宗派について、私はかなり考えた。
母はイエスキリストを慕っていた。西欧美術展を巡り、キリスト教聖画の葉書コレクションも残っている。

しかし最終的にたどり着いたのは、「代々の家の伝統、習慣となっている仏教形式で行う」ことだ。個人の信条と異なる位置にあっても、「仏教の法事があってよかった」と今、心から思う。

忙しい生活の中、優先して、普段会えない親族と会う機会があることは、良い習慣だと、歳をとって実感した。気持ちの区切りにもなった。母の存在は今でも時々感じるが、社会の一員だった母の存在を新たにした。

実際の命日は翌日の5月31日。
この日も穏やかな心地良い風を感じる快晴だった。
窓際に椅子を移して、ただ空を眺めていた。遠くの電車の音、鳥のさえずり、ごみ収集車の音楽など、人々の生活活動の音をしばし、聞いていた。

龍が鼻から息を出している?

雲が変化をつけて形を変える。
「もしかして空からのメッセージはないだろうか?」
目を凝らして雲の形をたどる。
「あれは龍が鼻から息を出している? 右下に十字架のようにも見える雲が。」母の干支は辰年だった。
「あの雲は目が二つ、口が真一文字の顔に見える」
父の顔を思い出す。

仁王のような人面に見える

私も旅立った人と生きる本格的なシニア生活に入った。

鴨居玲の絵は暗かったが...

5月18日、そごう美術館の「近代日本洋画の名作選展」を鑑賞する機会があった。文化センターの「芸術魂に触れるレクチャー」に参加した。
ひろしま美術館からのコレクションだ。

白い人(A) 1980年

最後のコーナーに鴨居玲の作品が数点展示されていた。
初めて知る画家と作品。
レクの終わりの方で、疲れも感じており、ほとんど時間をかけずに飛ばした。
引き付けられなかったが、しかし印象が強かった。

私の村の酔っ払い 1973年頃

異様に暗く、パネルの説明からはどうも神を信じない立場のようだ。
暗さと無神論者であること、性別が気になり、帰宅して生涯を調べてみた。たくさんの作品もネットで見て人物を想像した。

友達も多く、スペインにも留学していた。美形ゆえ、「多くのスペイン女性が驚くような流し目を送り、嬉しい」と手紙に書いている。ヨーロッパのキリスト教文化に触れても、神の存在を否定していたのだろうか。最後は自殺未遂で、知人の説によると、画家は未遂で終わりたかったのだが、飲酒と睡眠薬で57歳で他界した。

「月に叫ぶ」  1979年頃

彼の残した偉業は人生の知っておくべき暗闇を鮮烈に描いたことだと思う。

戻ってきたストール

5月14日、25度の夏日になった金曜日、友人と元町、山手方面へ散策に出た。
夏用の白いストールがあれば買おうと思っていると、中通りの雑貨屋さんで出会った。全体が薄いグレーで今季節のバラの刺繍が白色の糸で一面に刺繍されているストールだ。ひと目で気に入り、即購入した。

家に帰り、リュックを開けたところ、ストールがない。慌てて記憶を辿った。そうだ。歩き疲れて元町プラザ2階のカフェで休憩する前の、トイレの棚に置いたストールの映像が浮かんだ。遺失物を扱う電話をネットで探したが電話番号は見つからない。もう3時間以上は経っている。ほとんど諦めたが、何か方法はないかと懸命に考えた。残念すぎる。

そこで立ち寄ったカフェにすがる思いで電話した。感じの良い店の人がすぐにトイレの棚を見に行ってくれたが、やはりない。「いったん電話を切って下さい、折り返しますから」と丁寧な応対をしてくれた数分後、「ありました。隣の店の人が保管していました」と連絡がきた。「キセキ! 嬉しい。ホッとしました」と私。

考えてみると、トイレでは忙しかった。
まず、前に使用していた人がトイレの内側のフックに手提げを忘れていたので、私は慌ててドアを開き、声をかけた。その後、いつもはバッグに入れるスマホ、その日はリュックだったのでズボンの後ろポケットに入れていた。そのスマホが床に落ちて、危うく水没しそうなリスクがありヒヤッとしたのだ。トイレ個室から出て、リュックから買い物したストールを棚に置き、その上でタオルを取り出した。外で友人が待っているので急いでトイレから出た。とこんな具合だった。

この日の教訓は「公共トイレの中では集中を切らさない」そして「すぐに諦めずに方策を考えること」。

「ノマドランド」(2021年、アメリカ)

ノマドランドは2018年に出版された本「ノマド:漂流する高齢労働者たち」が原作のドラマ映画だ。

2008年のリーマンショック後、持ち家のローンを払いきれず、手放す人々が多くいた。主人公のファーンは夫を亡くし、住まいの住所の郵便番号も亡くなり、RV車で車上生活をしている。以前は臨時教員をしていたが、今は日雇いの移動労働者だ。少額の早期年金受給も選択にない。

登場人物はファーンと友達になったデビッドを除いて、すべて実際に流浪の車上生活をしている人たちだ。今からわずか3年前の2018年の映像だから、今も続く社会問題を提起している。経済格差から生まれた貧しい人たちが映る。

しかし、その裏に多く人たちの心の歴史がある。
主人公は「ホームレスではなくハウスレスよ」とプライドを持って、通りがかりの子供の言葉を訂正する。
確かにハウスはなくても、ファーンの心の中にホームがある。妹や男友達から住まいの提供の話があっても、好意として受け取るだけだ。

今は海外旅行に出られない時代にあるが、普段映像では映らないアメリカの素朴な雄大な自然、郊外のアマゾン社の工場内、セットではない場末のレストランなど日本では見られないシーンも珍しかった。

横浜イングリッシュガーデン

連休明けの5月7日金曜日。
薔薇真っ盛りの戸部の横浜イングリッシュガーデンを訪ねた。

Th-1
Th-2

見事に咲いた色とりどりの薔薇、薔薇、薔薇。

満開の薔薇が所狭しと高低差をつけて私たちを迎えてくれた。右も左も、モネの絵にあるように一枚の絵画に見える。

Th-3
Th-4

芳しいたくさんの異なる種類の香りを楽しむぜいたくだな時が流れた。

Th-5
Th-6

若い友達のグループ、カップル、年配の人達、ほとんどの来園者が感嘆の声をあげながら散策していた。
一人で訪れている人も写真を撮る手が止まらない。

いろは紅葉と薔薇

2009年の開園以来、工夫を重ね丁寧に育ててきた関係者の方々にお礼申し上げます。

法律は人のためにある

今日は5月3日憲法記念日だ。

NHKで午前中に長めの1時間20分の特集番組をしていた。
討論会で、コロナ禍で憲法が保証する「自由」についてだった。

番組を視聴しながら約20年前の裁判所での「調停」場面を思い出した。
母は専業主婦だったが、着物の訪問販売、「次々(つぎつぎ)販売」を受けて、10件近くの契約を結んでいた。支払い能力を超える額だった。

そのため弁護士を頼んで解決に取り組んでいた。私は営業の犠牲者になっていた母のため、また当然、営業のあり方に怒りを感じ、弁護士と共に、信販会社数社と戦っていた。

信販会社は、契約後に契約者に電話で契約の確認をする。
何と録音テープを提出してきたのだ。母らしき声で「はい」と答えている。父も「これはお母さんの声だよ」と言っている。これで契約に文句は言えないだろうか?

私は裁判所の調停で、裁判官に、母の声だとしても、信販会社の表面的な確認方法に問題がある、と訴えた。高齢の顧客に「契約しましたか?」と聞いて「はい」と答えるのが普通だろう。

「テープがあっても正当化する証拠にはならない」と感じた。専業主婦の支払い能力を考慮せずに、次々と契約させるのは法律に反しなくても、アウトだ。

結果、ほとんど時効になり残金を払うことはなかったほか、既払い金も小額ながら戻った。

当時は、ずっと「法律は人のためにある」と思って、戦っていた。

山下公園近辺を散策した

4月21日、風もなく日中の気温は23度と暖かな散歩日和。
日本大通りを通って横浜ユーラシア文化館を訪ねた。建物3階で「横浜中華街160年の軌跡」の企画展示があった。

中国の月琴、1940年頃

かわいい形の楽器を見つけた。

4階の横浜都市発展記念館にも立ち寄った。

横浜大震災、第二次世界大戦で焼け野原になっても、たくましく復興した横浜。その間、市民は寄席や歌舞伎を発展させ、舞台芸術を楽しんでいた。今はみなとみらいが「にぎわい座」として人々が集まって楽しんでいる。歴史を意識するとビルの谷間に昔の横浜村が重なってくるようだ。

陶器製ガスコンロ、昭和初期

戦時下の金属供出に伴い、陶器で作られたガスコンロは今見ると、珍しく、日本人に器用さ、対応のすばらしさを感じる。

富士山と2002年の横浜港

幾つかの横浜港の地図のうち、「吉田初三郎の横浜市鳥瞰図」は鳥瞰図絵師の第一人者、吉田が1935年に作成したもの。地図左手には下関、右手に明治神宮も描かれていて楽しい。1階のギフトショップで復刻版を購入した。

シルクセンターを過ぎ、象の鼻、山下公園と進んだ。

市民賞に選ばれた庭、山下公園

箱庭コンテスト作品がプロムナードに展示されており、いつもの景色と違う。人出も多く、皆、快晴の青空のもと、のんびりと庭園を楽しんでいた。

ピースサイン所感

母がベッドからピースサインをしている写真がある。
91歳で、おそらく「初めてのピースサイン」、母にポーズをしてくれるよう頼んだ。
本人の意思からではなかったが、今では良い記念だ。

若い世代、沖縄にて
若い世代、沖縄にて

私が学生の頃の1960年代、アメリカでベトナム戦争を反対して、ニコニコマークとピースマークがセットで流行った。日本にもすぐに文房具や雑貨に浸透していった。「スマイルのマーク」も「勝利と平和を示すピースサイン」も両方好きだったが、自分でジェスチャーするのは恥ずかしく絶対にしない、出来なかった。

しかし、母が2年前に他界してから急にピースサインを積極的にするようになった。
なぜだろう。写真を撮るときは、気持ちがリラックスして表情が緩むようだ。

ピースのジェスチャーと自分の気持ちが一致したからかもしれない。

ネットでチェックすると、有名な高齢の政治家や俳優も、好んでピースを出している。年齢に関係なく、心の底から「ひとり平和運動」もできるようだ。

「岡本太郎の旅」展を訪ねた

4月7日、かねてから興味があった、川崎の岡本太郎美術館の訪問を実現させた。「岡本太郎の旅」をテーマに10日まで開催されている。

母の塔、美術館を見下ろす
母の塔、美術館を見下ろす

小田急線の向ヶ丘遊園駅からのんびり歩いて30分ほど。道路が広く、途中から生田緑地の公園内に入るので、気持ち良く歩けた。

岡本太郎は1911年に生まれ、1996年85歳で他界、その3年後に養女の岡本敏子さんが美術館を開館させた。ほとんどの作品は川崎市に寄贈され、作品は公共の財産であり、身近に感じる。

「太陽の塔」1970、
 大阪万博のシンボル
樹霊 I、1970

入り口の池の中にそびえる彫刻「樹霊I」は1970年の大阪万博にて「太陽」の塔の地下に出品された。人間の根源的な感情、畏れと祈りを具現化した神像。

「森の掟」1950、岡本太郎

日本の神秘性に惹かれて、東北地方、沖縄、長野、島根、広島、和歌山の土地を旅し、本にまとめた。海外ではメキシコの旅で「人類のはじまり、生と死を意識する」きっかけとなった。

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