3月31日、以前から気になっていたみなとみらいのスカイダックに乗船体験した。曇りだったが気温は21度。
3時30分の便に予約した。満席で出航。
海上は思ったより、風が強く、波も荒かった。
前方の席はしぶきがかかるポイントもあった。
さくら吹雪も起こり、地面にピンク色の絨毯が出来始めるのが見えた。
これまで体験したこと、今の生活を、ちさと姿の見えないタモツさんが語った言葉をつづります。
3月31日、以前から気になっていたみなとみらいのスカイダックに乗船体験した。曇りだったが気温は21度。
3時30分の便に予約した。満席で出航。
海上は思ったより、風が強く、波も荒かった。
前方の席はしぶきがかかるポイントもあった。
さくら吹雪も起こり、地面にピンク色の絨毯が出来始めるのが見えた。
今週、新刊本「天使が語った道しるべ」が幻冬舎から全国流通になった。
昨年始めに「眼(あい) 天使が語った道しるべ」を電子書籍で配信して頂いたが、やはり「紙の本」の方がよい、という声が多かった。若い読者の間ではアニメの電子書籍は非常に伸びているそうだ。しかし文学作品や思想、宗教関係は「紙の本」は頭に入りやすく、自分のペースも守りやすい。
この度、紙の本の出版に至ったのは、去年の6月にチェコ共和国の25歳の女性から、郵便レターを受け取ったことがきっかけだ。
27年前に出版した「妙な本」を古本屋で彼女が購入し、手紙をくれた。紙の本は、目に見え、触ることができ、手でページをめくる。読まない時でも、そこに居て文字と共に何かを発信している。
私自身もこの本を愛読書として、長い間そばに置いてエネルギーを得ている。
3月14日は記録的な夏の陽射しが降り注いだ1日。
しばらく休んでいたウオーキングを兼ねて、近くのイングリッシュガーデンを訪ねた。
4時頃の来園者は5名、ほぼ貸し切り状態の中、木陰のベンチに腰を下ろしてそよ風を感じた。
子ハトが一羽、白いパンジーを食べている。
短く剪定された草木が広がり、サッパリした地面をみえている。パンジー、クリスマスローズ、白色や黄色の水仙などが点在して植えられていた。
桜の木を探した。オカメと名前のついたサクラの木は満開だ。
帰りに園芸コーナーで、オステオスペルマムの花苗を買った。中心の紫色が立体的な、八重咲きの白い菊で、初めて見る品種だ。
河口湖まで行く機会があった。
目の前の巨大な早春の富士山を満喫し、パワーを頂いた。時間によって少しずつ変わる富士山の三態の写真、感謝を込めて投稿します。
富士山の歴史は1万1千年前に始まる説がある。
2900年前に御殿場泥流があり、二つの山頂があった古富士は徐々に山体崩壊して現在の姿に近づいた。
約2300年前に山頂爆発が起きた。その後も爆発が続き、なだらかな新富士の山体になってきた。
1707年宝永大噴火が、最後の爆発と記録されている。
以前は休火山の分類だったが、分類方法が変更され、現在は活火山になった。
最近、毎朝セントポーリアのツボミの膨らみを観察するのが楽しみだ。今日は3月5日、春を感じる啓蟄の日。
写真に撮って拡大すると、また違った景色、世界が見えた。生命力旺盛で、葉も茎もツボミも光っている。植物のオーラ? 残したい成長記録だ。
過去に多くの人が「戦争と平和」の課題に取り組み、努力し、祈ってきた。
その間、いろいろなドラマがあっただろう。平和を得る代わりに得たもの、それは希望であったり、絶望であったり、友情であったり、苦しみであったりだった。過去の人々の成果を享受しているのが、現在の状態だ。
平和を語るとき、ある人は何らかの躊躇を感じると思う。
「そんな柄ではない」と思う人もいれば、気恥ずかしさを感じる人もいるだろう。公然と平和運動をする人以上に、密かに平和を願っている人々は大勢いる。平和祈願をする人々の中には、宗教者もいれば、子供もいる。現状が少しでも嫌だと思う人々は、すなわち、広い意味で平和を願っていることになる。
「戦争と平和」という一組の言葉があるように、「戦争のない状態が平和である」と考える人もいる。「事件が起こらないことを平和」と思う人もいる。
私はこう思う。いまだかつて、世界に平和が訪れたことがあるだろうか? 答えは否。いつもどこかで、争いが起きている。悲しんでいる人がいる。正しくない規則に縛られて、生きている人がいる。
全世界が知らなくても、絶えずどこかで問題が起きている。その争いの連続が、人間の歴史を作ってきた。平和の時代であれば、歴史の記述者は困ってしまうだろう。書くことがないのだから。
平和を願う者の突き詰めた思いは、「すべてのものが一斉に平和である状態」だろう。日本の平和だけを願う者、あるいはアジアの平和を願う者、特定地域の平和を願う者は、真の平和主義者の一歩手前にいる。全体の平和を願う者だけが祝福されるのだ。
政治家に関して言えば、今の地球上を見渡すと、誰も全体の調和ある平和を望んでいないようだ。かつて、平和に対する正しい理解を持っていた人も、一度政界という世界に組み込まれると、小規模な平和推進者にならざるを得ない。それが今の政治家の役目であるからだ。
すべての政治家は、防御態勢に入っている。一見、他国を攻撃しているように見えても、よく分析してみると、それは防御のための攻撃なのだ。現在の戦争も防御のための戦争だ。
一体、何をそんなに防御しているのだろう。そんなに守るものがあるのだろうか? 人にも当てはまることだが、国家も防御するものがなければ、攻撃もない。防御するものを捨てれば、攻撃は免れる。シンプルな理屈だ。
註:「眼(あい)天使が語った道しるべ」
2020年電子書籍より。