お題目

題目を並べる。題目とは、主題、主旨、見出しのことです。

お題目を唱える。題目を唱えるだけで、御利益がある言葉のかたまりがあると教える団体も多くあります。

言葉が発音されるだけでその力を発揮するのは意外に簡単です。しかし言霊までに及んで、神霊世界から力を頂くのは容易なことではありません。

多くの場合、人間がお題目を唱える場合、願うのは複雑な問題の解決です。
その効果が発揮されないことが多いかもしれません。それはなぜか?

題目に題がついていないからです。唱える人にしっかりした台がなければ、台無しになる。そして題目にも題がなければ、見えない力も焦点がしぼれず、その力を発揮できないのです。

しっかりした台とは何か?どうしたらその台をつけられるか?
台とは発語する人の土台です。安定した、しっかりした台形の上にその人が乗っていればよいのです。自分が信念を持って生きているか、否かは、本人がよくわかるはずです。

信念の人は、題目を唱えることで、ますます力が与えられ、台のない不安定な人はなかなか問題解決に届きません。自分でお題を考え、つけて下さい。

「持てる人はいよいよ富み、持たざる人は持っているものまで取り上げられるだろう」と新約聖書の中に書かれています。

 

 

流れる雲

photo: tisa

 

気を使わず、気を抜いて流れる雲。

ふんわり進んで、暗雲も通り抜け、

かたいものにもぶつからず、

障害物も、ものとせず、

いつの間にか、形を変え、抜け出し、

過ぎてゆく。

電話の役割、昔と今

以前は固定電話を使えば、友人知人への連絡はほぼ百パーセント可能だった。
常に固定電話回線で結ばれている。家族もご無沙汰している人も目に見える固定電話回線で日夜つながっていた。

一方、昔の電話では相手を確認できず、無差別に応答しなければならなかった。強制的に電話を取らされている。受話器を取り上げない意志は許されているが、ほとんどの人は「人が良い」のでこの固定電話を受け取らない権利を行使しなかった。この人の良さは、法律でも決まっていない、電話には出るものという見えないルールの上に電話の便利さが成り立っていた。

今は電話が鳴ると相手の電話番号が表示され、受話器を取る自由、取らない自由を与えられるようになった。これは電話の歴史上、革命的なことだろう。電話があっても連絡が取れないケースが多くなるということだ。

相手を選り好みできるということは、相手からも選り好みされるということだ。以前は不特定多数の人と会話をする機会を与えられていたが、時代が進み、自分の望む人とだけ言葉を交わす。無駄な会話が省ける。突然の闖入者を拒否できる。

回線だけがいつでも誰とでもお話できます、と手を広げて待っている。
この目に見えない回線の上に新しい会話をしない便利なツールが生まれてきた。

時代と人間の要請によって、世の中は全体の一つのまとまりからグループ化が進んできた。

三渓園にて散歩を楽しむ

今日は久しぶりに20度を超え、暖かい陽ざしが満ちている。
帽子をかぶって、横浜の国指定名勝の三渓園まで足を伸ばすことにした。
県外の人が来ると案内がてら利用するくらいだ。何年振りだろう?

今日の発見で一押しは「カラスの行水」を目撃したこと。

園内には正面の大池と、蓮池、睡蓮池と三つの池がある。浅瀬のある睡蓮池で何やら鳥が縦にジャンプしながら池に入っていった。

何の鳥だろう?と眺めていたら、バシャバシャと羽を広げている。ふっくらしていて小型だったのでカラスとわからなかった。子供のカラスが一羽で陽ざしの中気持ちよく遊んでいたのだ。あわててスマホを取り出したが、カラスの行水だ。すぐに飛び立ってしまった。かわいい行水だった。

桜には早く、赤や白の椿の木、雪柳の群生が目立った。

待春軒から三重塔を観る

大池には木のボートの上に背中を丸くしたサギがじっと立っている。
同じボートの反対側に2羽の水鳥が同乗している。彼らもじっと日向ぼっこを楽しんでいる。一幅の日本画を眺めているようだ。

大池に浮かぶ舟

帰る時刻4時ごろ、カメラを覗くと黒い影が!
よく見ると自分の影がくっきり道に映っている。

小学生のころ人の影を追いかける、影ふみの遊びをしたことを思い出した。

久しぶりに見た自分の影
4時頃

 

ヒトは受信・発信の波を出すタワー

発声される思いと頭の中の思いとは、少し位置が違う。
音波と頭の中の意志との違いはもちろんのこと、空気の揺れと頭の中の揺れがない念波との違いだ。

生き物の音波と人工的な音波は違う。植物が出す念波は聞こえないが、音に変えると軽やかな波で可憐な音。植物の前を通るとその波の気配を感じる。大きな木の前を歩いても、大きな波を感じる。力強い波、木の強さ。生き物の出す聞こえない波は多い。

このほかに肌に突きささってくる波がある。
人間の体に突きささり、また出ていく。入った反対の方向に出ていく。電線と鉄塔のように、人間が受けた波はそれが来た方向と反対の方向に伝わっていく。この波は元の方向に反射することなく、通り抜けていく。

人間の体なくしてこの波は伝わることができない。人間は波を発信する役をしている。意識しないで受けた波は同じ仕組みにより出ていく。何の努力もいらない働きで、多くのものが働くのが世の中の状態だ。

しかし労力なしでは働かないものも一部分ある。人間の意志である。

意志が働かなければ人間は働けない。自然の意志は意志とは言わない。一生の間、自分の思いを発動しない人もいるが、意志の発動は努力して出す。

大きな発動は大きな意志。小さな意志を働かすと小さな発動を起こす。意志次第で大きくもなり、小さくもなる。

勉強会

勉強会とはある分野の言葉の伝達の場だ。

勉強会は世の中に数多くあるが、無駄な言葉が少ないほど上(じょう)である。

どのような言葉を使うかで、その勉強会の良し悪しがわかる。
そこではより優れた言葉を使う心得で、慎重に言葉を選びたい。

勉強会が終わっても長く記憶に残れば、それは生きた勉強会だったことになる。

集まりでは、最も新しい発見、新しい想念を与えられるのが良い。
それは偶然の発見と言うより、自分で探してみて発見することができる。

日頃の生活の中にも新しい何かを発見しようと願い、自分が作った囲いを取る。囲いの外には新しいものが広がっている。

うちわの話の重要性 (2)

うちわの話の重要性は何かと申せば、それは少数が共有することの重要性だと言えよう。

少数しか知らなければ、その話は発展しない。一般に話はよく発展するが、うちわの話は発展しない、普遍性のない、そして個性豊かな話だ。外の話とは何の繋がりもない一個の話だ。

外の話はお互いに繋がっているが、うちわの話は外に出ない限り、時間が経てば消えてしまう。外との繋がりがない故、時間が経てば、なかったも同然の存在になる。なかったことにしたい話はうちわの話として留めておくのが賢明だろう。

そしてうちわの話を尊び、精神の強い人がその実践ができる。

うちわの話の重要性 (1)

うちわの話といえば、外に出さない個人的な話、家族・親戚などの身内の話、自分が属する組織内部などの話を指す。外部の人には直接関係のない小さな地域での話である。

うちわの話が外に出ると当然厄介なことがある。例えば、外の人に理解を得られにくい話なので、正しく伝えられない、無責任な噂の的にされてしまう、私的すぎるので外に出ると意識しすぎるなど。

うちわの話が外に出ていいことはあるだろうか?
少しはありそうだ。例えば、思わぬ傾聴すべき意見を聞ける、一緒に考えてくれる人も出てくるかもしれない、外の見知らぬ人が自分の身近に感じられるかもしれない。しかし、うちわの話は本来は内にあるべきなので外に出ると、内外をまたがった話になる。

これはその話の持つ本質が変わってしまうことを意味する。内に留まっているうちは密度の濃い存在だが、いったん外に出ると密度が薄くなるだろう。密度という言葉がわかりにくければ、重要性といってもいいと思う。

うちわで留めておくうちは重要性があるが、外に出るとうちわの話でなくなる、巷の話に変身してしまう。

人間の自由意志 (2)

人それぞれの収穫は十人十色で、神は人間の収穫物の違いを楽しまれる。

人口の数だけ、カラーがある。一人として同じ人間は存在せず、しかも同じタネを頂いている。自由意志は神からの贈り物であり、御自身がまかれたタネでもある。神が刈り取り、その収穫を楽しむためだ。

「色を楽しむ」それは神がなさることだが、人間にもその楽しみを与えてくれた。神は人間にいわゆる総天然色の世界を与えてくれたが、人間の肉眼で識別(色別)できる色は限られている。

一方、神には多くの色の広がりがあり、識別できる色は人間の肉眼の幅を超えている。無数の色を持ちながら、神は人間のように自由に色を選択することはなさらない。きれいな色も寒色系の暗いと思われる色も、寄せ集めて芸術品にしたいと思われている。

暗いと思われている色も、きれいに引きたてることが可能で、やりがいもあることだ。神はバラバラの色を統一させ、調和させる大芸術家である。

人間の自由意志 (1)

人間は生活を楽しむ自由を与えられている。

ある宗教者は禁欲生活、またはそれに近い生活を送ることを、期待されていることもあるが、それは神の意志からではない。個人の意志からだ。神はいつでも自由意志を許され、人間が自由に選択するのを見ておられる。

人間を縛るのは人間で、それはそれぞれの自我から発している。いつの世でも人間は自分自身を縛るばかりでなく、他人も縛ってきた。ある宗教に出会ったとしても、自由を縛ったり、縛られたりしているならば、そこでは神も縛られている。個人の精神の自由や解放は実現できない。

人間は自分で育てたものを自分で収穫し、その収穫したものは自分で使う。全部を自分のために使う人もいる。ある人は、感謝を込めて神に初穂を捧げ、別の人は残ったものを神に捧げる。自由意志を許している神は残ったものでも受け取られる。

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