他人のお金も大事

お金の話は多くの人が様々な角度、立場から語るテーマである。そこで共通していることはお金に価値をおいているということである。ただの紙切れならば、お金の話は発展しない。全員が価値を認め、価値を与えていることでたくさんの話が出てくる。

お金は人間が作り出したものの中で最もシンプルにして複雑なものである。製造は安定しているし、コストに対して価値は大きい。お金は人々の必要なものと不必要なものの象徴である。命はお金で買えないが、お金で命を失う人は多い。

お金と権力はセットになって、人々の目指すものとされている。舞台は一つの家庭の中において、または会社、国家の中で起こる。お金の量は多くても、少なくても不都合だ。片寄りがあることで人間模様が生まれてくる。お金の心配をしなくてよい世界は不可能なのだろうか?

自然界はお金なしで営まれている。人は今まで自然界に学び、歴史を作ってきた。科学万能、IT時代になっても自然界からのデザインや構造、知恵を模してものを作ることも多い。コンピュータも人間の脳からの発想で、電脳である。人の体は自然界に属する。しかし、人工のお金に支配され過ぎている社会になってしまった。言い換えると、主役がお金で、人々は奴隷ではないが気づかずに全ての人生を振り回されている。

お金の話は難しい。厄介なお金を変質させて、体に健康的な見えない栄養にしていくしかない。体にとって良いお金としていくしかない。お金の取り扱い方をよく知ることで、最初に作った人間が主役にならなければならない。

自分たちが作ったお金は、大事に取り扱うことだ。人のものを大事にする。人々は同じお金なのに他人のお金は粗末に扱い、自分のお金は大事にする。自然環境と同じで、お金はどこにでも存在するが、環境を大切にするのと同じように他人のお金の取り扱いにも注意をすることだ。投資家やお金を管理する役人は特に心せねばならない。

他人のものや心を大事にしている人は多い。同様に、他人のお金を大事に思って生きていくと、経済はもっと安定することに間違いない

退職と第二の人生

退職前と退職後の生活はガラリと変わる。人間は誰でも、男でも女でも、子供でも大人でも、急激な変化に対応するのは難しい。少しずつ、だんだんと慣れるものである。退職後の現実は昨日と今日の生活リズムは変わるし、環境も変わる、精神の安定度も変わる。前もって心の準備をしていても、準備と現実は違う。準備と予想は同時にできるが、現実と全て同じにはならない。

しかし定年前の準備は大事である。変化を少しでも目の前の現実と同化していく方向に近づける方が、精神と体の安定に役立つからである。定年退職または引退は一般には一生に一度だけである。大きな変化だ。環境、経済のサイクル、人間関係が激変し、自由な時間が渡される。社会人としての責任とは違うが、自由な分、全責任を負うことになる。退職前に得た自由とは異なる自由だ。

退職後の生活を楽しいものにするには工夫が必要だ。実際に自由な時間を手に入れて、やりたいと思ったことを始めても、初めは楽しくても、だんだん楽しい気持ちがしぼむことがある。退職後は第二の人生だが、第三の人生はないので後半の人生となる。

後半にすべきこともある。それはこの世をさるための準備だ。前半の人生では、退職後の後半に備え準備する。後半ではただ勝手気ままに過ごすのではなく、この世を去るための準備をしつつ、自由に楽しく生きることだ。他人まかせにはできない準備である。

ある人はここまで来たからと今までの我慢の部分を放棄して、偏屈になったり、自分磨きを怠り、他人の気持ちに敏感でなくなったりする。暴走老人と呼ばれてしまうこともある。あとは楽しく生きるだけと、残される人々の問題に関心が薄くなる。誰にも監視されず、評価されない状態で、自分のレベルを上げる努力を続けることはなかなか出来ないことである。後半の人生でこの部分を軽んじると、第二の人生は楽しくならない。

職業についている間は、意外に心の成長は遅く、同じ悩みをぐるぐると巡らせているものだ。心の成長は世間のしがらみから解放された退職後に大きく飛躍させるチャンスだ。もう終わりに近づいている、と考えるのではなく、これからやっと成長期に入るという気構えで毎日生きる。そうすると第二の人生が終わる頃、自分がその成長に救われるだろう。

不況と好景気

不況と好景気は対の言葉である。経済学者が不況、好景気を決めるのが一般的である。しかしこれだけ人口が多いと、実は不況の時に好景気を感じている人もいれば、好景気の時に不況を感じている人もいる。

数値で全体をひとくくりにするので、不況感や好景気感が作られる。両者はいつも共存して押し合いへし合いをしている。丸いボール状の容器に水と油が動いて押し合っているようなものである。全体量はちょうどよく収まっており、割合も変わらないのにどこに油が流れるか。どんな形で流れるか。

容器を振るとドレッシングのように油は細かく分散する。容器を振るには大きな力がいる。例えば天変地異が起これば、人々ははじめから自給自足をしなければならないので、不況も好景気もない。ドレッシング状態である。しかし、これは望まれないだろう。今まで構築したシステムが崩れるのは無駄である。

外側からではなく中からの振動が穏やかなやり方だ。中心から分離するやり方とは? 世界中央銀行はどうだろうか? 場所に応じて平均的経費を設定し、余った富は義務的に中央銀行に預けること、平均的経費が足りないところは無料で借り入れができること。中央銀行の首脳陣は平等に各国からの代表からなり、決定権も均一であること。経費以外の大型ボーナスも定期的に支給すること。たとえばの話であるが、一つのアイデアである。

個人レベルの話に持っていこう。不況と好景気、どちらを選ぶかとすれば、好景気を選ぶ人が多いと思う。しかし、不況の良い点もたくさんある。不況になると、ものを大事にする、助け合いの精神が強くなる。頭を使って生活をするので脳トレーニングになる。お金をかけずに、まわりの価値あるものを楽しむ術がつく。好景気の悪い点は、まずこれらの逆が考えられる。ものを大事にしない。人間関係にお金が多く割り込んでくる。脳を使わずに、お金を使う単純な生活になりがち。

不況の時の理想は、現実の生活では不況、しかし、気持ちは好景気が良いだろう。好景気の時は、現実の生活は景気が良くても、気持ちは不況の時の考えを維持することだ。どちらも忘れてはならない。生きている間、どちらも経験することだからだ。

友だちを持つ大事さ

友だちは何と言っても自分が感じた言葉を聞いてくれます。聞いてくれる存在が友だちです。

そのためには、語る言葉を持ちましょう。自分の気持ちを表現する言葉を蓄えましょう。そして必要な時に取り出せるようにしましょう。

そのためには言葉を選びましょう。自分の発する言葉で相手がイヤな気分にならないか吟味しましょう。そして暗い言葉を出しそうな時、自分の中に少し残しておきましょう。

だから自分が友だちになりたい、友だちが欲しいと思ったら、簡単です。相手の言葉に耳を傾ければ、そこから友だちが始まります。子供の頃、5分もあれば友だちになれたこともあるでしょう。

その友だちの間柄を長く続けたいと願うなら、相手の自由を尊重することです。自分の期待通りにいかなくても、立ち止まって相手の立場をよくよく考えてみることです。

友だちのすべてがいいものを自分に与えるとは限りません。友だちに対して意外に嫉妬心を持ってしまうこともあります。嫉妬心については多くの人が悩みます。それに対してどう対処するか、どのようにプラスの解釈ができるか考えてみる。良い方向へ向けるにはどうするか、多くの人の課題です。

友だちが一人だけの人は相手との絆が太いので、負担にならないように気をつけましょう。失った時のショックも大きくなります。

友だちが全くいない人は、人間以外のものと対話するようにして下さい。なぜ対話するのか? それは楽しいからです。繋がりを感じるからです。環境的にまわりに友だちがいない人は、植物、昆虫、動物、木々、目に見えない神仏に対して会話をして下さい。

人間がいない場合でも、命を感じるものと対話することは楽しいことです。

紅葉の名所、香嵐渓を訪ねた

11月10日、静岡駅からバスで香嵐渓を訪ねた。予想通り紅葉狩りには少し早かったが、暖かい気候の中、色づき始めた森や美しい巴川や待月橋(たいげつきょう)を歩いた。

待月橋

巴川の中の石が立派で、水は澄んでいる。愛知県三河線豊田市駅より車で45分、こんなに美しい川と森があるとは。バスのグループツアーで訪れたので、散策時間は2時間だ。まずは赤い待月橋を渡り、右側の川沿いの道を進むとお茶席やカフェ、そして香嵐渓広場に出る。昔ながらの猿回しの演技に人だかり。

掲示されていた貼り紙
昭和のかおりがした

静かな場所を求めて三州足助(さんしゅうあすけ)屋敷に入った。ここは入場料300円で、きれいに整備され気持ちの良い古民家が10棟ほどある。それぞれ、地元の人たちが地場産業を実演している。わら細工、機織り(はたおり)、傘屋、桶屋、紺屋、紙すき、篭屋、炭焼き、鍛冶屋、木地屋の仕事振りを見せてくれる。楽しい場所で1時間はすぐに過ぎた。中庭には牛もいた。

足助屋敷の中庭

歩き疲れたので炭焼きコーヒーの店堅香子(かたかご)カフェに入った。川沿いのテラスから川がよく見える。ほろ苦いコーヒーは美味しかった。お土産に地元の山そだち紅茶も販売していた。

カフェから眺める巴川

2時間はあっという間に過ぎた。交通は、名鉄名古屋本線東岡崎駅からバスで60分と奥まっているが、またいつか散策したい観光名所だった。

お伊勢参り

令和1年11月11日、1が5つ並ぶお日柄の良い一日に伊勢神宮お参りを果たせた。

天気は曇り、時々雷雨と予報されていた朝。

始めは二見興玉神社を参拝し、その後に伊勢神宮をお参りするという古からの慣わしに従って行動した。二見興玉神社は海岸線に沿って夫婦岩、天の岩屋などが祀られていた。まもなく晴れそうな曇り空のもと朝の散歩は、心地よく清々しい気分になった。

二見興玉神社の入り口
鳥居の中の夫婦岩

 

 

 

 

天の岩屋?の巨石が祀られていた

伊勢神宮の正式名称は神宮。125社をまとめた総称だ。はじめに外宮へ行きお参りをした。天照大神のお食事を司る神の豊受大神が祀られている。この神様はあらゆる産業の守り神でもあらせられる。外宮の火除橋は左側通行。内宮は天照大神をお祀りしている。入り口の宇治橋は右側通行。橋の向こうの結界に敬意を表して鳥居の前で一礼してから渡る。

内宮の鳥居

 

 

 

 

 

内宮の入り口宇治橋
左に桜も見える

 

 

 

 

 

この日は平日だが、団体客も多く賑っていた。

バスのグループの年配の紳士が、伊勢神宮をお参りできることだけでもすごいことなんですよ、と感想を述べられた。静かな空気と自然色の建物。華美なところは何もない、その場所に2000年の長きにわたって多くの人々は惹きつけられ、心の拠り所にしてきた。

正宮でお参りを済ませ、荒祭宮(あらまつりのみや)で個人的なお祈りをした。その帰り道、宇治橋の手前で静かな池を見つけた。誰一人いないのが不思議だったが、引き寄せられるように池の淵に近づいた。すると何匹かの錦鯉がやってきては離れて遊泳している。水面には晴れた空と真っ白い雲も映っている。秋の落ち葉、古いコケ類。時間が止まったような美しいときだった。後で観光用絵地図を見ても載ってないようなひっそりとした池だった。

錦鯉舞い、白い雲を映す
秋の美しい水面

翌日のニュースでは伊勢地方は雷雨が通り過ぎたり、雹が降ったりで、珍しい荒れた空模様だった。その合間をぬって、雨にも会わず、晴れた空のもと、お参りができたことも心に残った。

気持ちが晴れ晴れ

気持ちが晴れ晴れ。日本語には豊かな表現が多く潜んでいる。時々、使って後世に伝えていくことが大切だ。表現が豊かなので、特別に俳句や短歌などの教室に通わなくても、日常の会話から情景を心の中で膨らますことができる。

言葉は日常の動きを伝える基本的な使い方から覚える。学校や家庭で経験を積んで言葉の数やその言葉の持つ意味合いが深まってくる。

晴れるという言葉を幼稚園生が聞くと、太陽が出て天気が良い、というイメージを持つ。気持ちが晴れ晴れとまでは想像しないだろう。たまには自分を表現する言葉が少ないゆえに、「僕の気持ちは晴れてないよ」とギリギリの考えから詩的な言葉が飛びだすことはあるだろう。子供の頭は初心者のメルヘンがある。子供と話すと初心者の初々しさから生まれる言葉に驚いたり、笑ったりで楽しい。

言葉を豊かな人は、概して物知りである。持っている世界が言葉によって広がっている。自分の経験をいつも言葉に置き換えている人は、その世界を他人に伝えることができる。貴重な経験を重ねても、言葉にしなかったり表現しないと、残念ながら、その経験は個人的なものにとどまり、消えてしまう。貴重であろう経験も他人に伝わって初めて貴重なものになる。

人は常に心の中で言葉をつぶやいている。多くのつぶやきは、日常生活に関することだ。それ以外のつぶやきは感情的な不平、不満、喜びの言葉だろう。あとは他人に自分の考えを伝えるために、言葉選びをしている人も多いだろう。大人になるにつれ言葉は選ばれ、練られてくるはずだが、時としてそんな努力がめんどくさくなってくることもある。終わりが近づいていると感じると、捨てゼリフをいう人や、怒りだけをぶつける人も出てくる。幼い子供には見られない。

心が詩人の人とそうでない人の生涯は大変違ってくる。詩の心は言葉の初心者であった子供はみんな持っていた。初心者だからだ。初心者はすべてが新鮮で驚きだ。何を見ても楽しい。初めての経験。知ることの喜びを持っている。人は詩人の心から始まったが、途中で初心者の詩心が薄れ、しだいに隠れ、なくなったように見える。

気持ちが晴れ晴れ。シンプルだがこれも一行の詩になる。

 

夜明けの鈴の音

鈴の音は宗教的な音だ。

いちばん思い出すのは神社仏閣でお参りするとき。綱を振って鈴を鳴らす。お守りを買うと鈴がついていることも多い。家庭用のお仏壇にはお鈴がある。西洋ではトナカイのジングルベル、教会の鈴の音。

宗教から離れると、風鈴、玄関の呼び鈴、自動車や取締りの人が鳴らす警鐘音。いずれも自分以外の存在に呼びかける時に、まず鈴を鳴らす。いきなり話しかけず、音で気をひき、語り始める。当たり前のことだ。

もっとも身近な電話は鈴の音というより最近は音楽や効果音、時には振動だけだったりする。昔はベルが電話を発明したので、電話の呼び出し音といえばベルの音だけだった。リンリンと呼び出す。携帯やパソコンが普及してきて、ベルの音は少なくなってきた。多種多様の音を電子機器から出して、他人を呼び出すようになった。話す内容は昔も今もそれほど変わっていないが、会話が始まる前の呼び出し音の幅が広くなってきた。ベルの音は押され気味である。

鈴の音はシンプルである。電子社会からみれば、いかにも昔ながらの音だ。優しく、涼しげな音色から、かわいい音、浮き立つ音、荘厳な音、騒がしい音など。音階はないが、たくさんの表現が可能だ。鈴だけで会話が成り立つほどだ。

人間がことばを失って発声できなくなった場合を考えてみよう。音だけで気持ちを表現したら、怒り、不安の感情表現はたくさん表わされるだろう。感情にまかせて音を出すことができる。反対に楽しい思いは工夫を要する。しかし、追求すれば晴れやかな良い感情を微妙なまで表現できる。

夜明けの鈴の音。これを夢かうつつか?という状態で聴いたことがあるだろうか。布団の中で聴く音だ。この鈴の音はキィンコォンと1回だけ鳴るという特長がある。誰かが呼び鈴を鳴らすのだが、その後何も語らないというのも特長である。鈴の音が鳴ったと知らせるだけの鈴の音だ。訪ねて来る人もいなければ、メッセージもない。そのあとは無音、静寂である。呼び鈴だけ押したあと、逃げたのでもない。

そこに何かが訪ねて呼び鈴を押した。

ただ「私」がいるということを知らせるだけの夜明けの鈴の音だ。

法事所感

仏教では多くの儀式があり、法事は身近な集まりです

法事は家族、親戚が集まり、亡くなった人を弔います。亡くなって年月が浅い場合と年数がある程度たった場合と意味合いが異なります。

葬儀は四十九日法要、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌などがあります。初めのうちは故人の影が色濃く、だんだん年月が経つにつれて影が薄くなるのが通常です。最愛の人を亡くした場合、影が留まり、年月の経過も止まり、いつも亡くなったばかり、まだ生きているのではないかと感じることもあるでしょう。一般的には、去る者日々に疎しで、これは生きている人に対しても、故人に対しても当てはまります。

生きたまま立ち去った人に対しては、所在もわからず、気持ちもわからないものです。一方、明確にあの世に旅立たれた方は、所在は天国、亡くなった時の気持ちはある程度わかります。それでも現実の中に生きて進んでいくのが人間。影がだんだん薄れていくのは必要・必然のことです。しかし、それでしょうがないと言うものではありません。

故人を偲ぶ為に、個人的に時々思い出すことを自分の行事にされている方もいらっしゃるでしょう。法要は忘れないように、言い換えれば、思い出すように会を持ちます。最近は法事も省略する家庭もあるでしょうし、仏教徒でなければ、お墓参りという形でのみ死者を思い出す家庭もあるでしょう。形は様々でも死者を思い起こす機会を持つことは、生きている人にとって重要であり、エネルギーを与えられます。

それは死者からのエネルギーです。確実にこの世に生きていた人を思い出すことによって得られます。もし、故人が若くしてこの世を去っていれば、自分がその人の分まで人生を探ろう、頑張ろうという気持ちを持ってください。悲しみが和らいだとき故人とつながるためにも、弔うためにもそうしてください。

故人が高齢で十分生きた場合は、その方は生きているうちに迷いながらも最良の人生を歩んだと受け取り、その着地点にゴールしたことの喜びを感じてください。そこまで突き進んだエネルギーを思い、称賛し、想いを馳せてください。

法事は過去を思い出すと同時に、現在、未来への歩みを深めるためのすばらしい機会となります。

座右の銘と自分の名前

たくさんのことばが世の中にあふれています。以前は良いことばは残りやすく、無駄なことばは残りにくかった。インターネットの時代になってから、ことばの洪水ゆえ、逆に玉石やエッセンスが詰まったことばは見つけにくくなりました。人々は検索を重ねますが、自分にとって最良の良いことばを大事にし、さらに深めることがしにくい環境にあります。

しかし、良いことばに出会えば、それは一生かかって深く、より深く理解し、多くのことを教えてくれます。たくさんのことばを借りなくても、人生に必要なことばを自分の中に納めることができます。

本を読み、体験話を聞き、知識を深めることは人生を豊かにします。一方、書物に親しまない人々の方は多く、字を読めない人々も多い世界。それでも良いことばに出会えた人は、豊かな精神で人生を送ることができます。

ことばにはパワーがあります。もっとも多く耳にし、目にすることばは自分の名前です。何の疑問もなく、自分の名前を使い、使ってもらっています。名前の由来を両親が考えている場合が多いでしょう。憧れの人、尊敬する人の名前を我が子につけたり、音がいいからという理由もあります。名前は受け身でもらうものですが、自分の一部でもっとも自分を表し、影響を受けることば、文字、音です。

自分の名前が気に入らない人もいるかもしれません。どうしても受け入れたくない人は裁判所で改名してもらう道もあります。いったん自分の名前を受け入れたら、その名前に自分で意味付けしてみましょう。自分で決めるのです。しかも最大限、自分が望む幸福な解釈をつけてみる。自主的に自分の人生を創っていくことです。まずは名前。名前を大事にしましょう。一つ一つの文字の力が名前に力を与え、その人物に影響し、望むように導くでしょう。

ことばの力は、自分の名前というこの短い固有名詞からも感じられるのです。

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