祈りと神様の望遠鏡

日頃、宇宙に大きな祈りと小さな祈りが動いている。大きな祈りは絶えず祈っている。砕け散らない大波。神と人間のあいだを行きつ戻りつしている。

小さな祈りは、白いさざ波を立て崩れる波。外から見ても美しい。形も色もわかり、音もする波らしい波だ。さざ波は音をたて、神は返事をする。音がして波が消える。

さざ波のような小さな祈りは勢いも小さい。神は望遠鏡を使って、小さな祈りを引き取られるが、届かないこともある。小さな祈りを神様の望遠鏡に入れることが必要だ。

そのためには光っていること、目立っていることが大事だ。その光り方は霊的に光っているか、目立っているか。常に燃えている状態でいれば、光っていることができる。火を絶やさない松明(たいまつ)の燃え方だ。
神様の望遠鏡に向かって燃え続けている。

常に燃え続けるやり方とは? 火がなくなりそうになれば、火(神)を求めることだ。車がガス欠になれば、ガソリンスタンドへ行く。パンがなくなれば、パン屋へ行く。神が必要な人は神を求め、神を認める。

火(神)を認めることは、非を認めることにも通じるものがある。

京都の天橋立と伊根の舟屋を訪ねた(2)

12月2日、バスは8時30分出発の予定。ホテルは山の上近くにあり、どの部屋からも日本海が見える。

8時頃、7階の私の部屋から窓を見ると大きな虹が天橋立の中央付近から出ていた。よく見ると右側の山の中腹の白い建物は昨日上った傘松公園のリフト乗り場だ。予定していた伊根湾フェリーでクルーズも雨風のため欠航。そんな朝に虹を見せて頂いた。旅行中、隣席同士で行動を共にしていたツアーメイトの部屋をノックし、虹情報を伝えた。昨日のレインボーラインは何故その名前をつけたのか?などと話していたので、二人で虹が現れたことを喜んだ。

天の橋立に虹がかかった
傘松公園から天の橋立を眺める                                                            左の丘の上に白い宿泊ホテルが見える

予定通りバスは出発したが、霧雨が本降りとなる。伊根湾クルーズの代わりに道伝いの舟屋地域を訪ねることになった。伊根の舟屋は230軒の舟屋と130軒の土蔵がある町で江戸時代後期の建物も残っている。京都のベネチア? 海が舟着き場まで迫っており、道路からも建物の向こう側の海の様子がよく見える。バスを降りて30分くらい散歩をした時は、雨足も弱くなり写真も撮ることができた。

小雨の中の伊根の舟屋

舟屋を後にして丹後半島最北端の経ヶ岬、屏風岩、琴引浜とドライブ。雨は激しくなったり弱まったり。経ヶ岬(きょうがみさき)はかなりくねった道を上へ上へと進んだ所にある。ここの灯台は日本三大灯台の一つと言われている。断崖絶壁が続き、高度も相当高い。雨天の中、スリル満点だった。琴引浜(ことびきはま)は白浜で晴れた日はキュッキュッと子犬が泣くような音がするので有名な美しい浜。この日は雨で水を含んでいるのでその現象はなかった。この砂と白浜を維持するために日本初の禁煙ビーチで海の家などは離れたところに設置するそうだ。

福井県の三方五湖、京都の天橋立、伊根の舟屋を訪ねた(1)

12月1日日曜日。バス旅行1泊の旅に出た。新幹線の岐阜羽島から観光バスに乗り換えた。三方五湖(みかたごこ)レインボーラインを経て約1時間30分、三方五湖に到着した。山頂公園にリフトかケーブルカーで上る。天気が良く風もないのでリフトを選んだ。2分で山頂絶景エリアに着く。左手に美しい湖がいくつも重なり走っているように見える。右側も海と山々が広がり、見渡す限り青い海が広がっている。ここは若狭湾国定公園の中の景勝地で五湖それぞれの水質が異なる。2005年にラムサールに登録された。海水魚から淡水魚の魚たち、水鳥が生息している。公園全体がリニューアル完了もしくは最中で、バラ園は満開のバラが咲いていた。

メヴィウスの輪から見える
三方五胡

 

 

 

 

 

 

再びバスに乗り、京都の天橋立傘松公園に向かう。再びリフトで山頂に上るのだが、その前にふもとの元伊勢籠(この)神社を訪ねた。こじんまりした境内だが、神門入り口の重要文化財の狛犬が重厚な造りだ。拝殿は撮影禁止。お参りを済ませ、リフト乗り場に向かう。秋の木々の紅葉を眺めながら山頂に着く。すると、またつづれおりの石階段が長く続き、やっと「天橋立股のぞき の発祥の地」に辿り着く。登り道で疲れたせいか、正常のポーズで見る方が楽で良いと思った。

狛犬、重要文化財
重要文化財の狛犬

 

 

 

 

傘松公園山頂から
傘松公園山頂から
天の橋立を望む

天橋立は日本三景の一つで、呼称もきれいだ。その由来を調べると京都府広報ではこのような説明書きがあった。「丹後風土記によるとイザナギのミコトが天界と下界を結ぶためにハシゴを作って立てておいたが、ミコトが寝ている間に海上に倒れ、そのまま1本の細い陸地になった。」つまり、天のハシゴ立てがアマのハシダテと転じた? 地質学的には4000年前に複雑な潮の流れで地球上に現れたそうだ。管理も気になった。江戸時代までは知恩寺の境内として管理されていたが、明治以降は国、京都府の管理になった。

天の橋立、道路から宮津湾を眺める

傘松公園の山頂からリフトで下山し、いよいよ天橋立を歩いて渡る。長さ3.2キロの道のりを約1時間かかり、対岸の廻旋橋に着いた。幅が広いので普通の松並木を歩いている感じだった。4時過ぎて少し薄暗くなったが12月にしては寒くない。水面で休む水鳥の群れを見ながら、昔の人達が両岸の神社仏閣をお参りで行き来した道をなぞった。

天橋立桟橋から宮津湾
方面を見る

 

週の始まり、月曜日

人の気持ちは曜日によって影響されるものである。月曜日は働く人々や学生にとっては憂鬱な曜日であることが多い。週末休みの人ならば、切り替えが必要である。月曜日の迎え方を工夫したらどうだろう。

新しい週を迎えるのに、また働かなくては、、と古い考えや予想が入ってくる。真っ白な一日を与えられれば、期待もワクワクと楽しいはずだが、新しい週といっても、もう時間の使い方は決まっている。逃げられない。責任がある。気持ちよく月曜日を迎えるには、月曜日を好きになるしかない。月曜日は嫌だなあ、と多くの人が思うので、その考えや気持ちに引き込まれてしまう。月曜日の朝の通勤電車の中を思い出せば、世間一般の気持ちは共有できるだろう。

月曜日は始まりの曜日である。(日曜日を週の始まりとする国もあるが)始まりを迎えられたことに感謝する気持ちを持つ。始まりがなければ、物事は始まらない。しかも週末という間の休息を頂いている。そして毎週、毎週、始まりを頂いているのだ。

一週間という人区切りがあることはありがたいことだ。人が活動するのにちょうどいい長さの単位だ。始まって終わって、始まって終わって、の一週間の繰り返し。

終わり良ければすべて良し。これを実現するために、月曜日を始める。始まりはどんな状態でもオッケーである。寝不足でも、体調が本調子でなくても、良き終わりを目指して進んでいけばいいのである。

月曜日を迎えるのも気分次第。月曜日を温かく迎え入れ、憂鬱にならずに楽しい週末を迎えるように祈りつつ、とりあえず5日間生活すればよい。一週間ごとに生まれ変わった気持ちで週を重ねれば、良き時は流れていくだろう。

学校や職場に属していない人でも、リズムを作ることは大切である。呼吸を正しくすれば、よく生きるのと同じだ。家にいても普通の人は日課があるだろう。それに合わせて、週単位で賃金労働でなくとも、仕事を考え、週単位で始めと終わりのスケジュールを立てる。そしてその始まりがあることを改めて感謝するのが、月曜日を好きになる秘訣だ。

家庭内に流れる歴史とその政治

家政科と言う学部がある。現在、家政学部は人気がないようだが、家を政治することと国家を政治するのとどちらがやりがいがあるかと言うと、家を政治する方が大事だ。

家政は一場面、一場面が大事になる。自分の子孫に関わってくる。国の政治は多くの立場の人々の調整が主な仕事だ。他人のことである。家政は直接自分に関わることで、国の政治より家の政治の方が実はやりがいがある。国の政治では功績を上げれば、個人、または団体の名が残る。国の政治では一つの時代が始まり、そして一つの時代がその時々で終わる。

家の政治は幕が下がれば、また上がるのである。家政の楽しみ。この世に体がなくなっても、自分の残像を残すことになる。この残像は政治家の残像とは異なる。家の残像はまた蘇ることのある残像。家の面白さは世々受け継ぐところにある。祖先の残像を持つのが家。

古い人は新しくなるので、古い人も大事にしなければならない。新しい大事なものに生まれ変わる。無気力なものを残像の中に残すと新しい人が生まれる時にその無気力な残像が入ってしまうこともある。

しかし、過去の良き主体性は、縦横無尽につながることができる。過去、現在、未来は縦横無尽に流れている。人々の記憶、残像は現在に現れ、未来にも投影される。大きな一つの流れである。川が流れている限り、水は腐らない。川上の水が川下に流れ、海に合流するように、過去の出来事は淀んでいない。過去は未来に現れ、また生きる。

公平な平等は縦横無尽に繋がっている。平等の世界が広がっている。

自然の欲求と隠れた欲求

人間には、食べたい、眠りたい、話したいなどの自然に出てくる自然の欲求と、神を求め知ろうとする隠れた欲求がある。この隠れた方の欲求を全部出し切ると、とても魅力的な人になる。輝いて眩しい人になる。

現代の人たちはこの隠れた欲求を持っている人が少ない。過去の時代にはこの欲求の魂を持っている人がかなり多かった。神を忘れたことで隠れた欲求の魂が薄れている。神を知りたいと願う欲求が強ければ強いほど、魅力的になり、芸術家は永遠に続くと思われる芸術作品を生み出す。音楽家は不朽不滅の名曲を生み出す。

人間の一生の間で満足が行くほど神を知り得ないので、不満が残る。欲求不満となる。しかし、その不満は良い不満だ。悪い不満は膨れる。良い不満はある程度のところでとどまる。そしてあきらめて次につなげたいと祈る。

旅立ちの時のタカラ袋

人間は時の流れを変えることができない。

すべての人の願いを叶えることは不可能な時の流れ。

すべての人は時の流れに従順にならざるを得ない。

人生の終わりの時、気がついたら何も手に持っていなかったとわかる人。

すべてを経験し、すべてを所有したと満足に思う人。

傍目にはカラダ一つでこの世を去る。

そのカラダ一つに多くを入れる。人の形の中に色々のものを詰め込む。

荷造りは日々の生活の中で行い、旅立つ人々は終わりの荷造りをする。

旅立ちに何を持って行くだろうか。

カラダという袋の中に色々のものを入れるとお楽しみ袋になる。

自分が入れたものは知っていても、知らないものが入っている魔法もおきる。

自分の中にしまい込んでいたつまらないものが、永遠に役立つものに

変化(へんげ)する。

一つとしてつまらない世界はない。

究極の世界はみな詰まっている世界。

充満して丸くなるように、詰まっている世界は、

全体をやさしくおおう真ん丸い世界だ。

充実感を楽しむ魂

毎日充実感を感じることは難しい。工夫が必要だ。変わらない毎日を過ごしている人は、ことさら充実感を求めていない。いつも同じ心で日々過ごしている。充実感は後から感じることが多い。

充実とは限られた時間の中で、最大に近いことを行った時に感じる。たっぷり生きた気分になる。悪い要素は一つもない。人は充実感を楽しむことができる生き物だ。充実するのがいやな人はいないだろう。特別なことはせず、平凡に生きていても、普通に生きているだけで、充実感を感じられる人は最高だ。

ただ時間の流れで生きている人は、そんなことはどうでもよいと無気力になっていることがある。充実感を得るには、その前に意欲が必要である。意欲があるからこそ、充実が感じられる。意欲がなくなったら、ただ生きている状態に陥ってしまう。体は生きていても、魂は眠っている状態だ。充実感を感じるのは魂だ。

人は同じ生活を続けていると、意欲をなくすことがある。単調で安定した生活は意欲を奪う。学校、会社、社会的活動、家庭内で意欲を持ち続けるには、とりあえず次の三つの項目を考えてみよう。考えるだけでよい。意欲を持ち、それを維持するために助けになるためのチェックポイントになる。

① 若さ。精神的な若さ。
② 関心事を広げること。
③ 目標があること。

元気のない人はゆっくり休んで、自然回復を待つことである。リセットすれば必ず意欲が生まれてくる。そこから始めることだ。古いものを捨てることが意欲につながり、充実した気持ちで日々送ることができる。行動、日常は変わらないように見えても、心の充実感がプラスされる。それがいつも始まりのときであり、元気な状態だ。

私の意識は一人か、複数人数か、考えてみる

私は一人で、ふつう二人と思われていないが、目に見える私と目に見えない私がある。最初に存在したのは私で、次に体ができて私となった。体を有する私はもう一人の私であることに気づく。二人の自分があるので、人は選択に迷う時がある。植物は迷うことなく、光に向かって自然に伸びていくが、人間は躊躇があるので、まっすぐに伸びることはない。迷いがある、行きつ戻りつの人生である。

人間は、私だけの世界だけでは飽きてくるようにできている。自分に飽きると、あなた(他人)に向かう。あなたとの関係の中で自分を見るようになる。同時にあなたへの興味を持つと、世界が広がっていく。自分とあなたの世界は何十倍にもなる。

世界はタテの広がりができるので、ヨコの世界と合わせて何十倍にもなるのである。タテの世界は無限であるので広がりは大きく無限である。1+1=無限となる。1+1=2のヨコだけの世界は、行き詰まりか、元に戻ってくる。(地球の表面を考えてみてください。)

私とあなたの関わり合いで、あなたが同性の場合は、階段を上るような楽な通じ方をする。あなたが異性の場合、積み木を重ねるような工夫や苦労を要する通じ方になる。しかし成功すれば、やったと言う喜びがあり、それまでの苦労は一瞬に消える。

私とあなた。他の人間との関わり方では、「あなた」と呼ばれて、「はい」と答えるだけでは十分でない。「はい。何でしょうか?」の返事が好ましい。「はい」だけで終わるとそのあとに間ができて会話は止まってしまう。「はい。何でしょうか?」といえば、対応が続き、一人では思ってもみなかった新しい世界をタテに広げることができる。話を発展させるコツでもある。

私たちとは、簡単なようでむずかしい言葉だ。常に内容が変わっていく働きがこの言葉の中にある。

私たちは最低二人を指し、最高数は無限である。人間ばかりでなく、生きているもの、口のきけない植物なども全て包括することのできる魔法の言葉だ。

「私たち」と言う言葉を使うとき、人は「私」を持たないようにしている。終わりの頃、誰もが自然と口にする言葉になる

上下のバランス

上と下のバランスが取れていると平和で、物事は崩れにくい。親と子のバランス、上司と部下のバランス、経営者と雇用者、教師と生徒、牧師と信者などのバランスが取れていると組織内がうまく働く。

空路のバランスが取れないまま、飛行機が多くなると事故が多くなる。車の道路が多すぎると危険も増す。空路や地上の道路が多くなりすぎないように、自然が見守っている。道路が多すぎると、人間の血管が多くなるのと同じでキレやすく、事故が多発するようになる。

人間と土地の組み合わせも上下のバランスをつくる。バランスが崩れると人間は休んでしまう。寝込んで横たわってしまう。住んでいる土地が健康でないとその土地には病気が流行する。国土を愛する心、郷土愛などを持つことで土地をよみがえさせる。そして礼儀正しい振る舞いは見えない世界に影響を及ぼすことが大きく、健康になったりご機嫌を損ねたりする。

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