米子市と足立美術館(4)

翌朝、6時過ぎに目が覚めた。窓を見ると全体に霞んでいる。珍しい赤い太陽が丸く浮かんでいた。朝食はコロナ感染防止のため、通常のビュッフェではなく、和食または洋食がプレートで給仕された。この朝からの変更だ。和食を選ぶと、納豆、おからの和物、筑前煮、明太子、卵焼き、地元の子カレーの焼き物、宍道湖のしじみのお味噌汁など。ヘルシーでボリュームたっぷりの朝食だった。

枯山水庭

足立美術館へはホテルから3分くらいの久米町バス停から直行バスがある。
乗車時間は30分弱。10時前に美術館に着くと観光バスが2台入ってきた。しかし入り口を抜けると50人くらいの来訪者はだんだん見えなくなった。

手入れが行き届いた大小様々な庭をゆっくりと鑑賞。創設者の足立全康さん(1899〜1990) が目指した、横山大観が描くような絵画的な庭が続く。落ち葉やゴミなど一つもない。朝早いのにすでにスッキリと美しい。足立さんの精神に預かってこうして楽しめる。足立さんに拝礼です。広さは5万坪だ。館内には3ヶ所の休憩できるお店がある。

館内にもミニ石庭

 

 

 

 

どのお店も客がいなくて寂しい、もったいない。私たちは寿楽庵と言う茶室に入った。窓は掛け軸状に二つ開けられている。昭和45年美術館創設の際、制作された記念品の純金の茶釜で沸かしたお湯を使って、お抹茶が出される。お菓子は「日の出前」と名付けられた羊羹。小豆と砂糖を何層にも練り合わせたと説明があった。口当たりがとても優しく、リッチだ。

寿楽庵、床の間の書

床の間の書に注目した。「不風流処也風流」。
風流ならざる処また風流、と読むそうだ。禅語が収められている、中国の仏教書「碧巌録」からの言葉。

平安時代の書物で「風流」はここから始まったらしい。個人的に「風」は好きな言葉だ。すべてのものは風流だ…..。

足立美術館の庭は絵のように見えても日毎、季節ごとに変化している。風流だ。

米子市と足立美術館 (3)

市内めぐりの最後は寺町通り。小路(しょうじ)と呼ばれる昔風の道を通り抜け、寺町が現れた。400メートルの道に地方から移された九つのお寺が同じ側に並んでたっている。整然とした印象だ。門構えや庭のデザインも様々。その真ん中に位置するのは妙興寺だ。日蓮宗のお寺で米子城の功労者、横田内膳のお墓がある。

日蓮宗妙興寺、内膳さんが眠る

内膳さんは米子城に天守、御殿を設け、堀など城全体を整備した家老だ。そして城下町の町並みも完成させた才能あふれる武士だった。徳川家康から、甥の中村一忠の後見を託された。しかし米子城騒動で中村家の家来に志半ば、52歳で暗殺された。一忠もその後、20歳で夭折した。そんな伝説がある妙興寺だが、景観の気持ち良い庭だ。夕方になり、少し冷たい風が出てきた。

夕食時刻。近くの境港から水揚げされた松葉ガニの料理を扱う店を紹介してもらい、5時に予約を入れた。松葉ガニは山陰地方で水揚げされるズワイガニの別名。ホテルから自転車で10分くらいの純日本料理屋だ。部屋は椅子席にしてもらう。コース料理で焼きガニやカニすき、最後はカニ雑炊。初めての松葉ガニ料理のコースをありがたく味わった。

米子市と足立美術館を訪ねた (2)

城山の山頂は標高90メートル。山頂に着くと左に島根半島、日本海、右側に遠く隠岐大山国立公園の名峰大山がハッキリと見渡せる。地図で見ると離れているのに大きく見えた。富士山に似た姿だ。米子は水も美味しく、城山付近は空気もフレッシュ、違いがわかる。水は大山を源泉としていると聞いた。

名峰大山(だいせん)、中国山地
米子城跡の頂上から眺めた

下山して再び自転車で創業200年の長田茶屋で休憩。ここで茶道具の展示を見ながら、お抹茶と茶箱羊羹を頂いた。洋風和風のスィーツも広く扱っている。お抹茶をお土産に購入した。

老舗長田茶屋の店舗

次のスポットもお茶屋さん。米子城の改築、維持に寄与した豪商の鹿島家が城のシャチホコを記念品として贈られた。庭に据えられていた。400年前の陶器で高さ92センチと大きな縁起物だ。鹿島家の町屋の内装は天井が非常に高く、横に伸びている神棚が印象的だった。

鹿島家中庭のシャチホコ、400年もの

城下町米子は米子城と共に400年の町人の生活があった。特徴的なのは1609年に城主中村家が断絶し、家老の荒尾氏が預かった。以降は米子の商人たちが力を出し合って城の維持に努めた。城主なしの城下町で、移住してきた職人たちの気合、商人たちの自由な雰囲気と団結が続いてきた。

米子市と足立美術館を訪ねた (1)

3月17日の朝、鳥取県米子空港へ向かった。今回は友人と二人の個人旅行だ。
10日ほど前に、新型コロナの影響で旅行会社から予約キャンセルの知らせを受けた。一旦諦めたが、飛行機は換気も良い。足立美術館も営業している。鳥取、島根、岡山は現在コロナ感染者が皆無だ。個人で行こう、と思い立った。
家族の者も皆すでに訪れて、推薦していた。

羽田から約90分のフライトで11時前に米子鬼太郎空港に到着。発着時間に合わせてバスが米子駅経由、宿泊ホテルまで運行している。ホテルも航空会社系列のホテルを選んだ。11時30分にホテルに到着。すぐにフロントで午後ガイドの予約を入れた。当日でも予約できて運がよい。13時にロビーで待ち合わせすることになった。ランチはホテル内でカジュアルに済ませた。

ガイドのK氏がハッピを着て現れた。自転車で回るのが良いと言うことで、ホテルのレンタル自転車をフリーで借りて出発だ。前日は北風で気温も低かったが、17日は晴天、気温も17度くらい。サイクリング日和だ。

はじめに近くの米子城跡を訪ねた。城の門に枡形がある。そこに自転車を停めて、湊山の頂きを目指して歩き始めた。途中に市民が苦労して立てた約200体の石仏群が続く。大正時代に作られたこの四国八十八ヶ所霊場を逆回りにゆっくり進んで山頂をめざした。K氏が一つひとつ丁寧に説明してくれた。

珍しい矢穴、今も発掘は続いている
子供を抱える弘法大師
札打ち、他界した御霊をなぐさめる

三渓園にて散歩を楽しむ

今日は久しぶりに20度を超え、暖かい陽ざしが満ちている。
帽子をかぶって、横浜の国指定名勝の三渓園まで足を伸ばすことにした。
県外の人が来ると案内がてら利用するくらいだ。何年振りだろう?

今日の発見で一押しは「カラスの行水」を目撃したこと。

園内には正面の大池と、蓮池、睡蓮池と三つの池がある。浅瀬のある睡蓮池で何やら鳥が縦にジャンプしながら池に入っていった。

何の鳥だろう?と眺めていたら、バシャバシャと羽を広げている。ふっくらしていて小型だったのでカラスとわからなかった。子供のカラスが一羽で陽ざしの中気持ちよく遊んでいたのだ。あわててスマホを取り出したが、カラスの行水だ。すぐに飛び立ってしまった。かわいい行水だった。

桜には早く、赤や白の椿の木、雪柳の群生が目立った。

待春軒から三重塔を観る

大池には木のボートの上に背中を丸くしたサギがじっと立っている。
同じボートの反対側に2羽の水鳥が同乗している。彼らもじっと日向ぼっこを楽しんでいる。一幅の日本画を眺めているようだ。

大池に浮かぶ舟

帰る時刻4時ごろ、カメラを覗くと黒い影が!
よく見ると自分の影がくっきり道に映っている。

小学生のころ人の影を追いかける、影ふみの遊びをしたことを思い出した。

久しぶりに見た自分の影
4時頃

 

「出雲と大和」展、東京国立博物館にて

 

ポスター

2月18日、東京国立博物館で開催中の「出雲と大和」特別展に出かけた。
日本書紀成立から1300年とポスターに書いてある。今年、2020年は720年(養老4年)にこの正史が編纂されてから1300年の歴史が流れた記念の年でもある。

出雲と大和とは現在の島根県と奈良県。日本書紀の第二巻(名古屋、熱田神宮蔵)では出雲は「幽」=神々の世界、大和は「顕」=現実の政治の世界と記されている。

会場入り口には出雲大社遺跡から出土した3本の神殿中心部に立っていた心柱が展示されている。この大きさから巨大な神殿が推測される。よく出土してその姿を表してくれたと思う。この展示会では170余の作品が出品されているが、やはり大きいサイズのものが印象に残り、想像をかき立てられる。

出雲大社の心柱 ※東京国立博物館パンフレットより引用

個人的な印象が強かったベスト5は巨大な心柱、出雲の通常よりかなり大きな家や鹿などの埴輪グループ、日本書紀に出てくる実物の七支刀(七つに枝分かれした刀)、奈良県の十一面観音菩薩像2体だった。

金剛山寺から来られた十一面観音像は8世紀の桐材の一木造りで、女性らしい美しい細身の胴を持ち、お顔は親しみがある。何度も見返した。こちらを見られている気がする。217センチの大きな立像だ。

もう一つの十一面観音像は世尊寺から来られた。やはりほぼ同じ高さの一木造り。しかしこちらはがっしり左右安定しておりで全てを超越されている。全く二つの雰囲気の異なる十一面観音像が、時空を超えて、仲良く横並びに立たれている。

京都の旅、宇治平等院 (7)

人力車は平等院入り口で終点。ちょうど12時だったが、続けて平等院を見学することにした。

平等院は40年以上前に修学旅行で訪ねた以来。十円玉に建物全体があり、1万円札の裏に左の鳳凰が大きく描かれている。

庭園はイメージと違った。ちょうど一月から二月にかけて洲浜の掃除で水抜きの最中だった。鳳凰堂中堂、別名阿弥陀堂は足場が組まれており、壁の雲中供養菩薩像あたりはベールがあり修理中。安全保全のため、40名ずつ拝殿する。整理券を300円で購入した。

珍しい豪華な金色の木造の阿弥陀如来像、天蓋、光背は1053年に大仏師の定朝が造った唯一残る当時の像だ。

池の水なくして平等院のイメージは撮れないので、裏に回った。屋根の鳳凰は表も裏もなく変わらぬ姿で立っている。

平等院を裏側から見る

庭園内に2001年にオープンになった鳳翔館がある。その建物の手前で御朱印を頂いた。この日は工事中、そして新型コロナ感染警戒のためか、来園者が少なかった。担当者は丁寧にゆっくりと筆を走らせてくれ、ステキな御朱印を頂いた。

鳳翔館には大きな梵鐘、本物の鳳凰一対、阿弥陀堂壁からの雲中供養菩薩像26体が壁に掛けられている。風雨から守るために外の屋根にある鳳凰はレプリカだ。鳳凰の足は思ったより長かった。体長の4割くらいはありそうだ。菩薩像はそれぞれ異なる楽器を持ち、その種類の多さに当時の豊かさを感じた。大陸から影響だろうか。

優美な御朱印 ⛩

京都の旅、宇治上神社 (6)

 

宇治上神社の本殿
屋根が前半分長く、美しい曲線

宇治上神社は京都宇治の世界文化遺産17の寺の一つだ。鳥居の横の石碑文字がユニークな中国書体。本殿は平安時代後期に建てられた。現存最古の神社で、国宝になっている。鎌倉時代の拝殿も国宝指定で本殿の前にある。

この神社に祀られている祭神の応神天皇、仁徳天皇、稚郎子の物語をM君は詳しく話してくれた。父親の応神天皇に三人の異母兄弟がいた。末子の稚郎子(イラツコ)は学問好きで、人徳あり、百済人の知識にも通じ、父から寵愛を受けていた。

この兄弟が皇位をめぐって争い、天皇空位が続いた。この争いは奪い合いではなく、譲り合いだった。皇太子イラツコは学問が楽しく、皇位を継ぎたくない。兄は学に秀で、温和な弟に天皇になってほしいと願う。美しい兄弟愛だ。その譲り合いは三年間も続いた。その結果はイラツコは自殺し、兄が即位し、仁徳天皇となった。

珍しい抹茶色紙の御朱印

興味深い話だったので、帰ってからイラツコについて調べてみた。イラツコはあるとき道に迷ったが、ウサギが出てきて振り返りながら正しい道筋を教えた。神社に見返りウサギがお土産として売っていた。

ある説を見つけた。イラツコは自害した後、三日後によみがえり、自分の死後の後継問題についての希望を兄に託した。そしてそのあと安心して旅立ったと言うのだ。私はイエスキリストが十字架にかけられ、死後三日目によみがえったという話を思い出した。イエスも12歳の時には学問を極め、教会で司祭達に教えており、その姿に両親が驚いた。時代はイエスが誕生したのは二千年以上前なので、稚郎子の話はそれから三百余年後のことだ。

京都の旅、宇治川周辺と宇治上神社 (5)

旅の二日目は自由行動で5時に京都駅に着いて新幹線のぞみに乗って帰路に着く。

神社仏閣ばかりでなく、自然に触れながら散策したいと考え、京都から電車で20分で行ける宇治の町をゆったり回ることにした。10時20分にはJR奈良線の宇治駅に到着。途中、連山の麓に白の朝霧が横に伸びてきれいだった。この時期によく見えるらしい。

宇治橋そばの電話ボックス
屋根が平等院のミニ版

駅前で観光掲示板を見ていたら、人力車の俥夫さんが元気よく声をかけてきた。続け様に宇治の話を始めた。午前中は宇治橋を渡って宇治上神社の方向が人が少なく、ゆっくりまわれますよ。平等院はその後に訪ねる、皆と逆にまわるのがお勧め、と説明する。確かに。道案内役がいると深い知識も得られるし、思い出にもなるしなどと思い、徒歩の代わりに人力車にした。朝の空気が気持ちいい。

70分のオリジナルコースで、まず宇治橋を渡る、右手に折れて朝霧通りの入り口。由緒ある「つうえん茶屋」がある。代々続く茶人の住まいだ。そこからまっすぐ進むと左手に正覚院の階段が見えた。屋根に鬼瓦があるので止めてもらい、写真を撮る。たくさんの提灯に開運不動明尊とある。昨日の聖護院の不動明王を思い出した。鬼と不動明王、つながっている気がした。

観流橋にて
人力車の元気いっぱい俥夫さん
開運不動尊、正覚院
屋根に鬼がわら

M君によると宇治川は昔から暴れ川で、川沿いにそれを鎮める寺や塔が建っている。宇治川は川幅が広くきれいな青色だ。すこし川沿いに上ると観流橋に続く。左手に宇治発電所の放水の流れ、右手に宇治川の清流があり、橋のたもとで合流。二色の川の流れを楽しめる素敵なスポットだ。人力車に乗ってよかった。宇治川は元気に、悠然と流れている。後で調べると朝霧が川面に立つ風景は平安時代から和歌にも歌われてた。

京都の旅、迎賓館 (4)

迎賓館は2005年4月に開館した。京都らしく現代和風のイメージで匠の技が随所に隠れている。装飾品は少なく、皇室の押さえた芸術を感じる。青海波模様の段通の絨毯、美濃紙で造られた天井明かりのシェード、大ホール藤の間の綴れ織りのタペストリー、キリガネの舞台扉、竹細工の花籠など、11種類の伝統技能者が携わっている。

池のたくさんの錦ゴイは2004年新潟県中越地震の際の、現地のコイを引越しさせたそうだ。発想が素晴らしい、気持ち良いエピソードを伺った。コイ達は元気で大きい。立派な泳ぎを見せてくれている。下の写真の左上に見えるのは特別の賓客のための舟のへさき。池は浅いので舟遊び用に底を平らに作っているそうだ。

新潟から引っ越してきた
大きな錦ゴイの群れ

地下には令和元年11月10日の祝賀の儀パレードに使われたオープンカーが展示されていた。プレートに日付が書かれている。

天皇皇后の祝賀パレードで
使われたオープンカー
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