知恩院近くの「かがり火」で湯豆腐鍋定食をいただいたあと、いよいよ迎賓館に向かう。ここでは館内のスタッフが礼儀正しく迎えてくれた。2時間あまりのガイド付き。始めに大ホール藤の間で、十二単と着付けの実演があった。十二とは多くのものが一つにまとまる意味で(例えば十二ヶ月で一年)、着物の数は五枚だそうだ。お方さまとは言葉は交わさず、目の位置まで立つこともない。最後に、時間をかけて着た上の着物を瞬時に全部脱ぐ技があり、これを「もぬけ」と言うらしい。もぬけの殻はここからか?


技をご披露
これまで体験したこと、今の生活を、ちさと姿の見えないタモツさんが語った言葉をつづります。
知恩院近くの「かがり火」で湯豆腐鍋定食をいただいたあと、いよいよ迎賓館に向かう。ここでは館内のスタッフが礼儀正しく迎えてくれた。2時間あまりのガイド付き。始めに大ホール藤の間で、十二単と着付けの実演があった。十二とは多くのものが一つにまとまる意味で(例えば十二ヶ月で一年)、着物の数は五枚だそうだ。お方さまとは言葉は交わさず、目の位置まで立つこともない。最後に、時間をかけて着た上の着物を瞬時に全部脱ぐ技があり、これを「もぬけ」と言うらしい。もぬけの殻はここからか?
京都御苑は昭和22年から国の環境省の管轄で、国民公園として開放されている。日本には他に皇居外苑と新宿御苑が国民公園になっている。
その御苑にある貴族の茶室、拾翠亭(旧九條家茶室)と閑院宮邸跡、そして平成17年にオープンした京都迎賓館を訪ねた。
入場料は百円。拾翠亭二階建てで御苑内の南に位置し、江戸時代後期に建てられた。当時の高価な薄いガラス窓や透かし彫りの窓が珍しい。会合にも利用できる。
茶室の向かいに位置するのが旧閑院宮邸跡。ほぼ完全な形で残る唯一の江戸時代の公家住宅だ。
2月14日、旅行会社の主催の京都を訪ねる1泊2日の旅に参加した。38名の参加者がバスで回った。キャンセル待ちで参加している人もいる。
1日目は、聖護院門跡、京都御苑、そして京都迎賓館の三箇所だ。それぞれ予約拝観で、丁寧な説明をして頂き日本の歴史や文化を深める良い機会になった。
聖護院は1090年、修験道の総本山として創建された。門跡とは寺格を表し、皇族・公家が住職を務める特定の寺院のことだ。
寺の名前の由来は、白河上皇の熊野御幸に案内役を務めた増誉大増正。上皇に重用され「聖体護持」を与えられた。その二文字を取って聖護院と名付けた。近くは紅葉の山があり古来、錦林府とも呼ばれた。
見所がたくさんあった。狩野派の襖絵、孔雀や鶴など素晴らしかった。孔雀は毒虫を食べるという理由でも題材として好まれるそうだ。
本尊の不動明王像は複数あり、どの像も迫力がある。見るからに修験僧を励まし、守ってくれそうな気迫を感じる。数年前のポスターに私の印象が強かった像が載っていた。
謁見の間(上段の間)も興味深い。畳の縦横を見ると当時、どのように座り、謁見したのか想像、体験できる。
奄美大島は奄美諸島に属する鹿児島県だ。加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島までが、鹿児島県内にあり、少し南下したところに沖縄県沖縄本土が位置する。島の大きさは佐渡島に次いで第2位。
琵琶湖に形、大きさが似ているが、海岸線は複雑なので、奄美大島は461kmと琵琶湖241kmの2倍弱と長い。面積は約712㎢、琵琶湖は681㎢だ。
最北端の笠利崎から大海が一望できるが、左手は東シナ海、右手は太平洋が広がる。大島の北半分は観光客を迎える空港や大きな庭園の中の大島紬村や田中一村美術館、最大都市の名瀬がある。
大島の南半分は静かな森林地域や71km2のマングローブ原生林が広がっている。観光バスは北部中心に周るそうだが、今回のツアーは島全体をドライブした。離島の加計呂麻島などの人口1200人の生活も大自然の表情を見せてくれ、人気の島らしい。
空港からバスで20分、龍郷町に1万5千坪の敷地内に亜熱帯植物庭園が広がっている。地面は波状に小石が手入れがされており、美しい。大きく繁った南国の木々は間隔を十分にとって成長している。巨大な敷地内に贅沢に育てられている。赤白のハイビスカスやブーゲンビリア、ポインセチアも大きく延びている。
この庭園内で大島紬の製造過程を見学できる。池では泥染めをしている職人さんもいた。織物機で実演してくれたのは始めて2年半になるという明るい女性。糸を図柄に合わせて染めてから織るので素人には難易度が計り知れなく感じる。工場建物の屋根は、この地名から取った龍郷柄の模様になっている。赤色の部分が映える可愛い屋根だ。
きれいに整った設計の中で、次回来園した時はのびのび育つ樹木たちと会話しながら、時間を気にせずにゆっくり散策したいと思った。
奄美空港から車で5分。奄美パークの中に田中一村記念美術館がある。
高倉式住居を3棟つなげており、モダンであり、懐かしい心休まるデザインだ。
常設展は80数点の展示があり、年4回の入れ替えが行われる。
今回の展示は初期の南画、水墨画、絹本着色絵として描かれている奄美の植物と小鳥が印象に残った。
明治41年に栃木県で生まれ、生活圏は東京時代、千葉時代、そして移住先の奄美では昭和33年から19年間の孤高の生活を送った。昭和55年9月11日、古稀を目前にして自宅で倒れた。恩師の川村喜美さん、不昧さんに送られた最後の手紙には、最後まで絵を描き続けられたことへの感謝のことばが綴られていた。
今回の展示物で印象的な題材は小鳥たち。いつくしんで描かれているのが伝わる。
絵の中に、ルリカケス、アカヒゲ (この2種は天然記念物)、コウライウグイス、トラツグミ、イソヒヨドリ、琉球アカショウビンを見つけた。
一村は自宅でトラツグミやコウライウグイスを自分で育てた。小鳥が具合悪い時は渾身の看病をした。
コウライウグイスはこの鳥が生きているあいだは描かなかったそうだ。
時計が9時を回った時はもう野宿だろうと、ほとんど諦めていた。もう1時間も閉鎖時刻が過ぎている。しかしハリーはねばり、車を走らせた。と、突然大きな看板が闇の中から現れた。
「ジョルダンヴァリー・クロッシングポイント」
そして矢印があった。もう10時を過ぎている。国境に近づくと灯りがついていた。最後のスタッフが戸締りをしていた。すがる思いで事情を説明し入国を頼んだ。数多くの入念かつ執拗な質問をクリアしてイスラエルの地に入国できた時は、万歳、バンザイと叫びたいくらいの高揚感だった。
真夜中の12時にウルパンの門をくぐった時、我が家に帰って来たような安堵感があった。
デビッドはアンマンに向かうと言うので彼もドライブに加わり、ツアーメイトとなった。英語圏の人は情報量が違う。駅前近くの安価なホテルを紹介してもらった。鳥料理のレストランで10時近くだったが、夕食を美味しくいただくことができた。見知らぬアラブの土地で米国人の鳥学者は心強い道連れだ。
3日目。私たちはアンマンから1時間のジェラーシュと言う古代ローマの遺跡の街を訪ねた。この日ハリーは仕事だ。ジェラーシュの町は全体が古代十都市連盟デカポリスの遺跡なのだが、非常に保存が良い。原型が完全に残っている立派な遺跡の数々に驚き、感激した。考古学に詳しい人は興味が尽きないだろう。そして古代劇場は今も夏の音楽祭でステージとなっている。素晴らしい遺産を持ちながらそれほど観光地化されておらず、素朴なのがまたよかった。
この日の夜にはウルパンに戻らなければならない。翌日は新学期だ。鳥学者と別れを告げ、夕方4時にアンマンを出た。帰りはナビゲーターのハッサンはいない。道に迷いながら国境にたどり着いたのが7時。しかしそこの役人は
「マイカーでイスラエルに入国するのは、北のジョルダンヴァリー・クロッシングポイントだ。8時には閉鎖されるから今夜は泊まった方がいい。」
と、すげなく言われた。
慌てて北に向かうが行けども行けども暗闇が続く。灯りも標識もホテルもレストランもない。人々は親切でも英語が通じない。銀行でも換金がうまくいかなかったので、ヨルダン通貨もない。食物もなく朝から食べそびれていたので空腹だ。途中道を尋ねた商店の人が追いかけてきて何やら包み紙を渡してくれた。パンが幾つか入っていた。食べ物をもらってこんなに有難いと思ったことはない。
ウルパンでは彼のほかに21ヶ国の人々と出会った。そして同じ釜の飯を食べたのだ。
これはとても貴重な体験だ、毎日強くこう思いながら過ごした。
初めの三週間の学期はまたたくまに過ぎた。
日本からのご夫妻は帰国の途に就いた。しづえさんとはクラスで苦労を共にし、心優しい大沢氏には勉強その他多くを教えてもらい、お世話になった。多くの時間を共有し、語り合ったので前日から別れが辛く、落ち込んでいた。私はさらに1ヶ月間の授業で苦労しなければならない。仲良くなったクラスのメンバーもほとんど入れ替わるのだ。
次の学期まで4日間の休みがあった。とにかくウルパンの敷地を出て外の空気を吸いたかった。韓国のハリーがヨルダンのアンマン支社を訪ねると言うので、ガソリン代割り勘で同乗させてもらい、まだ見ぬヨルダンを観光することになった。アンマンから留学しているハッサンが家に帰るのでやはり同乗して道案内をしてくれることになった。この3日間のヨルダン旅行は非常に印象に残る旅となった。
1日目。国境の税関で手間取ったため、ネタニヤを出発して7時間かかってアンマンの町に就いた。ヨルダンでの観光の予備知識がなく、ホテルの人に近くの見どころを教えてもらった。市内のローマンシアターを訪ねた。そこは現在も町の人々の憩いの場所となっていた。急な階段をベンチがわりにたくさんの人々がくつろいでいた。レバノン杉が風景の中でアクセントになって異国を感じさせてくれる。
二日目はハッサンが強く勧めるペトラの遺跡を訪ねることにした。ハリーの事務所も土曜日で休みだ。アンマン市内は道路が複雑で、市外に出ると英語のサインはなくアラビア語だけだ。必ず道に迷う。
4時間かかってペトラに着いた。入り口でペトラ滞在2日目と言う米国の鳥学者デビッドと出会った。旅は道連れ、彼も加わってこの細く続く1キロの古代ナバテヤ人の遺跡を歩いた。インディジョーンズの映画の撮影場所にもなったそうだ。ピンクの岩で造られた稀有な地形、切り立った断崖に圧倒される程高い王家の墓がそびえている。鳥学者のデビッドは遠目が効き、はるか頭上、塔のてっぺんにとまっている白鳩のツガイを見つけた。途中、少年が生まれて間もない鷹の赤ちゃんを売っていた。人々の生活は大変そうだ。王家の墓となっているいくつかの洞窟のほかに、修道院や博物館がある。山にも登り、往復6時間もかかった。しかしその価値は十分にあった。
日本の大沢氏の中級クラスではエッセイや新聞記事からのリーディングが多いそうだ。毎日宿題が出る。授業時間の他に自室で3時間くらいの勉強が必要だ。発音の課外授業もあり忙しく、手紙を書く暇もない。移民の生徒たちは特に熱心に学ぶし、授業の進度も速い。宿題も大沢氏に助けてもらわないとこなせなかった。
授業の他にも行事予定が目白押しだ。一週間の予定表が配られる。バイブルクラス、独立記念日の祝典、ダンスやフォークソングの練習、ユダヤ教の年間の祭りなど。毎年アメリカから参加していると言う年配の女性詩人がこう感想を述べていた。
「4月5月は独立記念日を始めとして、民族的行事が特に多い時期。だからウルパンの雰囲気はエモーショナルになり過ぎるのね。」
だが私にとってはこうした行事からユダヤ人の建国からの思いを感じ、ベストタイミングで参加できラッキーだと思っている。
ここの宿泊施設は軍隊の女性兵士の定宿でもあるので、食堂で一緒になる。シャバット(ユダヤ教の安息日)のディナーでは彼女たちの力強いフォークソングを常に聴くことができた。イスラエルには国民全体で歌える愛唱歌がたくさんある。こうした歌声からもイスラエルの気持ちが感じられる。
土曜日だけが唯一の休日で朝寝坊できる日だ。徒歩5分で行ける海岸には風通しのよいカフェテラスがあり、宿題持参でも、地中海を目の前にしてよい気分転換ができた。また二週間ごとの遠足も楽しみだった。チャーターバスで、カイザリア、エルサレム、ナザレなどの古い町を訪ね、高原を歩きながらガイドから植物や地理、歴史の話を聞いた。集合時間に関しては日本人からするとルーズだ。遠足ではそれが幸いして、急がされずにゆったり散策ができた。
ウルパンでの体験で良かったことの一つは韓国からのハリーと知り合ったことだ。彼は30歳半ばのビジネスマンだ。1年の予定でイスラエルの市場調査を行っている。彼の話は興味深かった。父親は人間国宝で金属の食器を作っている。韓国内の徴兵制度とその生活、教育問題、北朝鮮に残る両親との突然の別離があったこと、その後の家族との連絡方法が大変なことなど、ここでも日本とかけ離れた事情を抱えて生きている人たちがいた。ハリーと知り合いになって韓国が身近になった。