ウルパン・アキバ滞在記 ②

金浦空港、済州島空港で7時間待たされ、飛行時間20時間というあきあきするフライトになってしまった。機内ではイスラエル人の半導体関係のエンジニアが隣りに座っていた。4人の成人した子供の父親で50歳くらいの気さくな、落ち着いた感じの人。有り余る時間の中、話が弾み、国や仕事、旅や家族の話などから、個人的な結婚・恋愛・離婚事情までに及んだ。おかげで降りる頃には彼の半生が頭の中に入っていた。

同機ではハイファで日本博物館のマネージャーをしているという同年代の女性とも知り合いになり、ハイファでの再会を約束した。イスラエルに到着する前からフレンドリーな雰囲気に触れて不安がだんだん消えていった。(良い出会いが待っている。)もう軌道に乗った。前進あるのみだ。

テルアビブ空港に着いたのは夜中の2時半だった。友人マリアの姿をゲート出口で見つけた時は、持つべきものは親切な友達だ、と心から嬉しく思った。私が日本を離れる前、テルアビブでバス爆破事件が続き、レバノンとの戦争も始まっていた。政情も不安定だった。実際、テルアビブ市内ではマクドナルドやショッピングセンターの入り口でテロ予防のための手荷物チェックがあり、改めて国情の違いを思った。

しかし、この国は昔から複数の異なる宗教、異なる人種が共存しつつも特別な聖地であり続けた。平和と争いもある、世界の縮図のような国、この点がイスラエルという特殊な土地の本質かもしれない。

マリア宅の裏庭に住む
親子ネコ

テルアビブから地中海に沿って車で1時間北上するとネタニヤというリゾートの町がある。目指すウルパンはこの町の郊外にある。マリアが車でウルパンまで送ってくれた。海岸に近い、住宅地区にウルパンの敷地は伸びており、学校とコテッジスタイルの生徒専用ホテルが点在している。スプリンクラーが随所にある庭には彩りよく数々の草花が咲いていた。到着したのは春休み最後の日で、新学期の前日、4月21日だった。

「普段の休み中は人がもっと少ないですよ。今はレバノン近くからの避難民が南下し来ている。このホテルでもその一部を家族単位で受け入れているんです。だからいつもより賑やかですよ。」
チェックインのとき、ホテルの人が教えてくれた。
(続く)

ウルパン・アキバ滞在記(1996年)①

1995年10月31日、自分の中で声が聞こえてきた。

「イスラエルにいざ行かん。今度はできるだけ長く。
そこから世界を眺めよう。」

今までとは違う旅のスタートだった。

私はそれまでに2回イスラエルの土地を訪れていた。最初は1985年12月、画伯M氏をリーダーとする9日間のグループツアーだった。二度目は1991年の9月、東京で親交のあった友人家族を訪ね、エルサレムに三週間のホームステイをする機会があった。同じ国を三度訪問するとなると観光だけでなく、文化やそこに住む人々をより深く知りたい欲求が出てくる。

私は翌年の春に出発することを決めた。どんな場所で、どう過ごすかは直前までイメージが湧かなかった。年が明けて3月、ある旅行会社のパンフレットを手にした。それはヘブライ語学校(ウルパン・アキバ)を紹介していた。生徒は世界各地から集まるあらゆる世代の人々、あらゆる職業の人々、とあった。人種や宗教は問わない。ウルパンに隣接する宿泊施設に泊まり、三食を共にする環境でヘブライ語を学ぼうという主旨だ。部屋もほとんど共用タイプだ。

今回、多くの人々と出会い、対話したい私の目的にぴったりの生活の場ではないか。ヘブライ語は難しそうだが、言葉からその国の文化もわかる。聖書の原文にも触れられる。記憶力が減退しつつある脳への刺激にもなる。「これだ」というヒラメキと同時に行くべき理由が次々と浮かんできた。

すぐ手続きにかかった。とりあえず泊まる場所と食事は確保できる。私は1学期22日のコースを2学期間、滞在することにした。

(集団生活は遠い昔の経験だ。
今さら見知らぬ異国の人たちと部屋を共有できるだろうか?
マイペースの生活を大切にしてきた私が。)

一抹の不安はあったが、全て経験は無駄にはならないだろうと、4人部屋を選んだ。必要書類を二週間で揃え、ファックスで送った。翌日には入学日時の確認の返事が送られてきたので、迅速な事務処理に感心した。これでフライトを予約することができた。4月の入学に間に合い、出発を4月17日と決めた。

ウルパンへ出発する前、テルアビブの友人宅に最初の4日間泊めてもらうことになった。ソウルから直行で13時間で到着の予定にアクシデントが起きた。
(続く)

京都の天橋立と伊根の舟屋を訪ねた(2)

12月2日、バスは8時30分出発の予定。ホテルは山の上近くにあり、どの部屋からも日本海が見える。

8時頃、7階の私の部屋から窓を見ると大きな虹が天橋立の中央付近から出ていた。よく見ると右側の山の中腹の白い建物は昨日上った傘松公園のリフト乗り場だ。予定していた伊根湾フェリーでクルーズも雨風のため欠航。そんな朝に虹を見せて頂いた。旅行中、隣席同士で行動を共にしていたツアーメイトの部屋をノックし、虹情報を伝えた。昨日のレインボーラインは何故その名前をつけたのか?などと話していたので、二人で虹が現れたことを喜んだ。

天の橋立に虹がかかった
傘松公園から天の橋立を眺める                                                            左の丘の上に白い宿泊ホテルが見える

予定通りバスは出発したが、霧雨が本降りとなる。伊根湾クルーズの代わりに道伝いの舟屋地域を訪ねることになった。伊根の舟屋は230軒の舟屋と130軒の土蔵がある町で江戸時代後期の建物も残っている。京都のベネチア? 海が舟着き場まで迫っており、道路からも建物の向こう側の海の様子がよく見える。バスを降りて30分くらい散歩をした時は、雨足も弱くなり写真も撮ることができた。

小雨の中の伊根の舟屋

舟屋を後にして丹後半島最北端の経ヶ岬、屏風岩、琴引浜とドライブ。雨は激しくなったり弱まったり。経ヶ岬(きょうがみさき)はかなりくねった道を上へ上へと進んだ所にある。ここの灯台は日本三大灯台の一つと言われている。断崖絶壁が続き、高度も相当高い。雨天の中、スリル満点だった。琴引浜(ことびきはま)は白浜で晴れた日はキュッキュッと子犬が泣くような音がするので有名な美しい浜。この日は雨で水を含んでいるのでその現象はなかった。この砂と白浜を維持するために日本初の禁煙ビーチで海の家などは離れたところに設置するそうだ。

福井県の三方五湖、京都の天橋立、伊根の舟屋を訪ねた(1)

12月1日日曜日。バス旅行1泊の旅に出た。新幹線の岐阜羽島から観光バスに乗り換えた。三方五湖(みかたごこ)レインボーラインを経て約1時間30分、三方五湖に到着した。山頂公園にリフトかケーブルカーで上る。天気が良く風もないのでリフトを選んだ。2分で山頂絶景エリアに着く。左手に美しい湖がいくつも重なり走っているように見える。右側も海と山々が広がり、見渡す限り青い海が広がっている。ここは若狭湾国定公園の中の景勝地で五湖それぞれの水質が異なる。2005年にラムサールに登録された。海水魚から淡水魚の魚たち、水鳥が生息している。公園全体がリニューアル完了もしくは最中で、バラ園は満開のバラが咲いていた。

メヴィウスの輪から見える
三方五胡

 

 

 

 

 

 

再びバスに乗り、京都の天橋立傘松公園に向かう。再びリフトで山頂に上るのだが、その前にふもとの元伊勢籠(この)神社を訪ねた。こじんまりした境内だが、神門入り口の重要文化財の狛犬が重厚な造りだ。拝殿は撮影禁止。お参りを済ませ、リフト乗り場に向かう。秋の木々の紅葉を眺めながら山頂に着く。すると、またつづれおりの石階段が長く続き、やっと「天橋立股のぞき の発祥の地」に辿り着く。登り道で疲れたせいか、正常のポーズで見る方が楽で良いと思った。

狛犬、重要文化財
重要文化財の狛犬

 

 

 

 

傘松公園山頂から
傘松公園山頂から
天の橋立を望む

天橋立は日本三景の一つで、呼称もきれいだ。その由来を調べると京都府広報ではこのような説明書きがあった。「丹後風土記によるとイザナギのミコトが天界と下界を結ぶためにハシゴを作って立てておいたが、ミコトが寝ている間に海上に倒れ、そのまま1本の細い陸地になった。」つまり、天のハシゴ立てがアマのハシダテと転じた? 地質学的には4000年前に複雑な潮の流れで地球上に現れたそうだ。管理も気になった。江戸時代までは知恩寺の境内として管理されていたが、明治以降は国、京都府の管理になった。

天の橋立、道路から宮津湾を眺める

傘松公園の山頂からリフトで下山し、いよいよ天橋立を歩いて渡る。長さ3.2キロの道のりを約1時間かかり、対岸の廻旋橋に着いた。幅が広いので普通の松並木を歩いている感じだった。4時過ぎて少し薄暗くなったが12月にしては寒くない。水面で休む水鳥の群れを見ながら、昔の人達が両岸の神社仏閣をお参りで行き来した道をなぞった。

天橋立桟橋から宮津湾
方面を見る

 

紅葉の名所、香嵐渓を訪ねた

11月10日、静岡駅からバスで香嵐渓を訪ねた。予想通り紅葉狩りには少し早かったが、暖かい気候の中、色づき始めた森や美しい巴川や待月橋(たいげつきょう)を歩いた。

待月橋

巴川の中の石が立派で、水は澄んでいる。愛知県三河線豊田市駅より車で45分、こんなに美しい川と森があるとは。バスのグループツアーで訪れたので、散策時間は2時間だ。まずは赤い待月橋を渡り、右側の川沿いの道を進むとお茶席やカフェ、そして香嵐渓広場に出る。昔ながらの猿回しの演技に人だかり。

掲示されていた貼り紙
昭和のかおりがした

静かな場所を求めて三州足助(さんしゅうあすけ)屋敷に入った。ここは入場料300円で、きれいに整備され気持ちの良い古民家が10棟ほどある。それぞれ、地元の人たちが地場産業を実演している。わら細工、機織り(はたおり)、傘屋、桶屋、紺屋、紙すき、篭屋、炭焼き、鍛冶屋、木地屋の仕事振りを見せてくれる。楽しい場所で1時間はすぐに過ぎた。中庭には牛もいた。

足助屋敷の中庭

歩き疲れたので炭焼きコーヒーの店堅香子(かたかご)カフェに入った。川沿いのテラスから川がよく見える。ほろ苦いコーヒーは美味しかった。お土産に地元の山そだち紅茶も販売していた。

カフェから眺める巴川

2時間はあっという間に過ぎた。交通は、名鉄名古屋本線東岡崎駅からバスで60分と奥まっているが、またいつか散策したい観光名所だった。

お伊勢参り

令和1年11月11日、1が5つ並ぶお日柄の良い一日に伊勢神宮お参りを果たせた。

天気は曇り、時々雷雨と予報されていた朝。

始めは二見興玉神社を参拝し、その後に伊勢神宮をお参りするという古からの慣わしに従って行動した。二見興玉神社は海岸線に沿って夫婦岩、天の岩屋などが祀られていた。まもなく晴れそうな曇り空のもと朝の散歩は、心地よく清々しい気分になった。

二見興玉神社の入り口
鳥居の中の夫婦岩

 

 

 

 

天の岩屋?の巨石が祀られていた

伊勢神宮の正式名称は神宮。125社をまとめた総称だ。はじめに外宮へ行きお参りをした。天照大神のお食事を司る神の豊受大神が祀られている。この神様はあらゆる産業の守り神でもあらせられる。外宮の火除橋は左側通行。内宮は天照大神をお祀りしている。入り口の宇治橋は右側通行。橋の向こうの結界に敬意を表して鳥居の前で一礼してから渡る。

内宮の鳥居

 

 

 

 

 

内宮の入り口宇治橋
左に桜も見える

 

 

 

 

 

この日は平日だが、団体客も多く賑っていた。

バスのグループの年配の紳士が、伊勢神宮をお参りできることだけでもすごいことなんですよ、と感想を述べられた。静かな空気と自然色の建物。華美なところは何もない、その場所に2000年の長きにわたって多くの人々は惹きつけられ、心の拠り所にしてきた。

正宮でお参りを済ませ、荒祭宮(あらまつりのみや)で個人的なお祈りをした。その帰り道、宇治橋の手前で静かな池を見つけた。誰一人いないのが不思議だったが、引き寄せられるように池の淵に近づいた。すると何匹かの錦鯉がやってきては離れて遊泳している。水面には晴れた空と真っ白い雲も映っている。秋の落ち葉、古いコケ類。時間が止まったような美しいときだった。後で観光用絵地図を見ても載ってないようなひっそりとした池だった。

錦鯉舞い、白い雲を映す
秋の美しい水面

翌日のニュースでは伊勢地方は雷雨が通り過ぎたり、雹が降ったりで、珍しい荒れた空模様だった。その合間をぬって、雨にも会わず、晴れた空のもと、お参りができたことも心に残った。

ハイデルベルグ (3)

ハイデルベルグで公園に不思議な噴水を見た。ビスマルク広場近くで、ハウプト通りからよく見える。始めは水道破裂で大量の水が噴き出しているのかと思ってビックリした。近づいて見ると池から出ているのだ。ハイデルベルグは山間に位置している。ネッカー渓谷からの自然水だろうか? 説明書きの立て札も見当たらず、ネット検索でも出てこない。

ビスマルク広場近くの大噴水

歩いていると、聖霊教会よこに人気がありそうな、ほぼ満席なレストランを見つけた。クラシカルな室内テーブルと外にカフェテリアを備えている。ちょうど聖霊教会が目の前にそびえるよい席が空いた。メニュー選びで迷い、One plateとスープを注文した。これが美味しかった。旅行中、初めてドイツらしいソーセージや春巻き風揚げ物、マッシュポテトなどの盛り合わせ料理。一皿を二人でシェアしても満足な量だった。

 

最後の晩餐

こうして、最後の夕食を取りながら、ビールで旅の無事を祝った。感謝です。

ハイデルベルグ、クルージング(2)

船は定刻に出発。しばらくすると隣りのマッシュー君が何か言いたげだった。このドイツの若者は一人旅だ。イエス?と話しかけると、川の中で人を見つけたらしい。よく見ると冷たい水の中で男性が泳いでいた。

ハイデルベルク城

オー、アンビリーバブル!で会話が始まった。ブレーメンから休暇を利用して車でハイデルベルグの親戚の家を訪ねた。1日チケットは便利だ、と見せてくれる。話し始めると大きな声で高笑いする陽気な人だとわかった。仕事は警備員で食料品を扱う倉庫で侵入者をモニターチェックをしていると言う。船内に犬がいたので、犬は好きですか?と聞くと、まあまあ、猫の方が好きだ、と答える。2匹の猫を飼っている。彼らはまったく性格が違う、オスの三毛猫はダランダランしておっとりしている。一方、白黒のメスは騒がしく、子供が来ると毛を立てて追いかける。彼は、英語が得意ではない、ごめんなさい、と言いながら、すべて身振り、手振り、猫の鳴き声、顔マネを交えながら説明した。とてもおかしかった。プロの芸人のようでモノマネが上手だった。

上流の折り返し船着き場

例のサイン帳に好きな言葉を頼むと、哲学的なフレーズは浮かばない?
しばらく悩んで、モインモイン、と書いた。これは彼の造語で、朝、昼、晩と使える挨拶の言葉らしい。皆に受けているそうだ。最後にお礼のボールペンを渡すと、すぐにバッグの中でお返しの品を探し始めた。そして日本では見かけない特大のレッドブルの缶を指差した。500ミリリットル近くの缶、重たそうだ。
ノーサンキューと丁重にお断りした。

ネッカー川
川原で休憩中の水鳥

 

ハイデルベルグ、クルージング(1)

9月16日、月曜日。旅も終わりに近づいて明朝はフランクフルト空港から羽田へと帰路に着く。最終日は観光スポットを見つけるのではなくノープランで行こう。

朝食をゆっくり多めに取り、9時過ぎにホテルを出た。ネッカー川を目指し進むとほどなく、川沿いの道を見つけた。歩いていると観光船発着場がいくつもある。出発時間を調べると11時出発3時間のクルーズがあった。料金は17ユーロで高くはない。天気も良いし、船上からハイデルベルグの町並みや城や城壁も眺められる。

 

出発まで1時間余りあるので、そのまま川岸に沿って散歩を続けた。有名な古い橋、カールテオドール橋のふもとについた。モダンな猿の像がシンポルになっている。頭部が空洞になっており、そこに頭を入れるとラッキー?。猿の手にある金貨をさわると金運がよくなる。奈良の東大寺にもくぐり抜けると幸運、という柱があったのを思い出した。早速、試してみた。頭はするりと入った。何か期待ができそうだ。

11時10分前に船着き場に戻ると、すでに十数人の観光客が並んでいる。ほとんどが2階野外デッキに行く。昇ってみると席はほとんど満員。大型犬を連れている人もいた。上流の停留所で下船して3時間ハイキングして、5時発の船に乗ることもできる。山歩きスタイルのグループもいた。席を探していると、最後列の船の手すり近くに2つ空席がある。上下グレーのスエット姿のマシュマロマン風の男性がここ空いてるよ、とジェスチャーで示した。折りたたみ椅子の個人席だ。テーブル席は満杯。狭そうだが、落ち着けるかもしれない、とそこに席に決めた。客の後ろ姿が多いが、デッキ全体の様子も眺められ、両側の景色もよく見えた。

 

アーヘンから列車の旅

9月15日の日曜日、4泊したホテルを後にしてアーヘン駅へ向かった。ケルンまでは各駅列車に乗り、そこからハイデルベルクまでドイツの新幹線と呼ばれるICEを利用した。

アーヘンを11時51分に出発。スーツケースを引いて二人分の空席で出口の荷物収納場所がよく見えるところを探した。座席上部の席番号がないところは指定席でないとわかる。行きつ戻りつ、4人掛けの席に座ることにした。すでに髭の男性が分厚い本を開いて静かに読書している。一見風格のある気難しそうな人に見えたので最初は通り過ぎたのだ。

人は見かけによらず。しばらくたって、おもいきって話しかけた。「私たちはケルンで乗り換えてハイデルベルグへ行くところです。」

男性は顔を上げ、「僕はベルリンまで行きます。大学生です。」「何を専攻されていますか?」 「哲学ですよ。」

何か話が合うような気がしてきた。

「私も宗教に興味があります、クリスチャンですか?」 「そうだけど熱心ではありませんね。」「今、母の追悼の旅でドイツを回っています、よかったらこのミニアルバムに好きな言葉かフレーズを書いてくれますか?」 「それはいいアイデアですね。」

前日のケルン大聖堂で書いてもらった言葉、Have faith. を見ながら、信仰も大事だけど、僕は自分自身に対して「強くあれ」、と言っています。と説明して、

Be strong.とドイツ語で書いてくれた。その後も話がはずみ、なぜハイデルベルグに行くのか、など積極的に質問してきた。

降りるとき、よい時間を持てたと握手をして別れた。姉は、学生とは思わなかったね、素敵な人だったから写真を撮ればよかったね、と言った。私はこの哲学する学生との記念写真は撮らない方が余韻が残るだろう、と思った。

ハイデルベルグ駅には15時34分に到着した。タクシーで旧市街にあるホテルに向かった。古い建物を改造したペンション風のかわいいホテルだ。

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