鯉のぼりの季節

今日から連休が始まる。
今年はステイホーム週間にして下さい、と行政、メディアが呼びかけている。
1年前の2019年、平成最後の4月、目前の令和への改元のイベントに世間はエキサイトしていた。母もベッド生活を続けながらも、食欲があった。5月1日には約一年ぶりでいつもの流動食を替えて、普通米の握り寿司を食することができた。新しい令和時代を祝っていた。

部屋の片付けをしていたら、小さな額縁がたくさん出てきた。母はデイサービスに週2、3回お世話になっていた。月に一回、工作の時間があり、季節感のあるデザインで小物を作り、家に持ち帰ってくる。素朴で可愛い作品をスタッフの方々が選んでくれる。5月の鯉のぼりは2つ作品があった。今年鯉のぼりは外では見ること少ないので、玄関に飾ることにした。

母の手作りの作品は鎌倉彫も多くあるが、やはり最近の作品に母の空気やDNAを感じる。今年の特別な5月を思い、母を思いながら、新聞記事で見た伊勢崎町通りの浜っ子を元気づけたいと願う50匹の鯉のぼりストリートに散歩に行こうかと考えている。はたまた、去年母に聞かせた童謡の「こいのぼり」、甍の波に雲の波〜を歌って元気を出そうか?

布貼り絵

 

 

 

 

砂絵

 

 

村上春樹の新刊「猫を棄てる」を読む

 

コロナの影響で、多くの店舗が閉まっている。ステイホーム、外出自粛の時だ。
それでも新聞が届き、郵便物、宅配の品が届くのはありがたい。

本屋も閉まっているので、村上春樹の新刊を電子ブックで購入した。電子ブックは10数年前から徐々に増えてきた。はじめの頃の無料の本を試読したことがあるが、有料で新刊本を購入するのは今回初めてだ。ディスプレイはどうしても目が疲れるので敬遠していた。しかし「猫を棄てる」が気になり在宅時間が長い昨今、新しい読書ツールを体験することにした。

1ページ大の挿絵が多く、台湾出身の若い画家の絵は懐かしく、繰り返し鑑賞できる作品だ。村上春樹の作品の挿絵はいつもカジュアルで楽しい。しかし今回の作品は細かい描写画で、父親の時代を反映してセピア色で昭和を思い出す。

村上の作品は小説が多いが、私はエッセイが読みやすく好きだ。長編小説も細部の描写が多く、先に進まないのが良い。今回のエッセイは自らの父親や親戚のことを語る珍しい内容だ。人は歳を重ねるとやはり、自分の先祖のことが気になってくる。特に他界した人物については発表しても良いだろうと判断する。表現者は父母の面影を残したい思いが強くなるのだろう。

個人的には文中の父親の養子のエピソードで思いが大きくふくらんだ。昔は養子、養女が多くあった。戦国時代から家や政治の事情で、皇族もそうだ。親の立場で受け流される事情だが、子供の立場は複雑だ。その人生もその分深くなる。

 

 

 

桜の便り

今日は朝から青空。風もなく穏やかだ。
昨日は雨、今日は快晴。ベランダで洗濯物を干し終わった時、さっと白いものが私の目の前に現れ、ふわりと落ちた。桜の花がヒトヒラ足元にある。
なぜ、ここに? 風もなく、近くに桜の木もない。ここは5階だ。すぐにわかった。母からの合図だ。

母は令和元年の5月に息を引き取った。その後、私の心の中で共に生きている。母が姿を変えた2日後。用事で近所で開業している母の主治医だった医者を訪ねた。すると歩道の左側から大きなアゲハ蝶が現れ、楽しげにずっとついて来るのだ。こんな親しげなアゲハ蝶は初めてだ。

蝶々と言えば、お墓参りでお墓近くに出てきたり、道案内するように近くを飛んだりする。故人が蝶々に姿を変えている。そんな言い伝えを思い出した。

モンシロチョウはよく見かけるが、その時は美しいアゲハ蝶だった。母が手を振っている。心細かった私に、大丈夫、と一緒に散歩してくれた。
しばらくしてそう気づいた。

桜の花びらを眺めながら、あのアゲハ蝶を思い出し、朝のひとときを過ごした。母からの桜の便りだ。この大事な便りはすぐに写真に収めた。

ベランダに届いた桜の便り

 

 

新年度始まる

4月1日。また巡ってきた。
今年はいつもと空気が違う。
垂れ込めている。人々の気持ちに加えて、今日は雨模様。

規則正しく動ける人は幸いだ。
不規則になっている人は災難だ。

その中でできること。
目を閉じて楽しいことを考えよう。

いつもスマホを見ている人、
ネットの中も空気が淀んでいる。
ニュースはコロナウイルスに占められている。

いつもと違う社会。
不安が勝っている。

こわいのは不安の感情そのもの。
不安から目をそらして、
目を閉じて楽しいことを考えよう。

水木しげる、飄々と生き延びた偉人

「戦争で生きたいと願っていたのに亡くなった人、すなわち、無念の死を遂げた人のことを思えば、今誰も可哀想でない、と思う。」

2015年11月30日に93歳で亡くなられた、水木しげるの言葉。

2007年8月12日NHKスペシャルで終戦記念番組「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」の中で、水木しげるがコメントされたのが上の文章だ。
思い切った表現が心に残り、メモしておいた。今回の旅でまた思い出した。

この時に「総員玉砕せよ!」「泉鏡花伝」「猫楠」など読み、改めて水木ワールドに触れた。

三渓園にて散歩を楽しむ

今日は久しぶりに20度を超え、暖かい陽ざしが満ちている。
帽子をかぶって、横浜の国指定名勝の三渓園まで足を伸ばすことにした。
県外の人が来ると案内がてら利用するくらいだ。何年振りだろう?

今日の発見で一押しは「カラスの行水」を目撃したこと。

園内には正面の大池と、蓮池、睡蓮池と三つの池がある。浅瀬のある睡蓮池で何やら鳥が縦にジャンプしながら池に入っていった。

何の鳥だろう?と眺めていたら、バシャバシャと羽を広げている。ふっくらしていて小型だったのでカラスとわからなかった。子供のカラスが一羽で陽ざしの中気持ちよく遊んでいたのだ。あわててスマホを取り出したが、カラスの行水だ。すぐに飛び立ってしまった。かわいい行水だった。

桜には早く、赤や白の椿の木、雪柳の群生が目立った。

待春軒から三重塔を観る

大池には木のボートの上に背中を丸くしたサギがじっと立っている。
同じボートの反対側に2羽の水鳥が同乗している。彼らもじっと日向ぼっこを楽しんでいる。一幅の日本画を眺めているようだ。

大池に浮かぶ舟

帰る時刻4時ごろ、カメラを覗くと黒い影が!
よく見ると自分の影がくっきり道に映っている。

小学生のころ人の影を追いかける、影ふみの遊びをしたことを思い出した。

久しぶりに見た自分の影
4時頃

 

桃の節句、ひな祭り

ニュースは、今年の春は新型コロナ感染で今までにない事象が日本、世界で起きている、と連日伝えている。

正確にいうと、今現在、世界で生きている人々が経験しなかった事態になっている。

今は医療の発達や情報量の多さ、速さ、自由な発言などで、今までなかった状態になっている。

3月に入った。明日は桃の節句、雛祭りだ。

暦は確実に、誠実にやってくる。

雛祭りは一部では流し雛の風習もあり、健康、幸福を願って川に人形を流す。

一年に一度の3月を大切に過ごしたいと願う。

Watercolors, tisa

食事の役割

毎日の食事。多くの人は食事時間を楽しみにしているのだろうか。それとも息をするように当たり前のことと思ってその時間を消化しているのだろうか。

私の場合、食事は一人で取るか、二人でいただくか、3人でいただくか、それ以上の人たちといただくかで食事に対する期待度が異なってくる。

一人の食事は食卓を囲んで、と言う雰囲気はもちろんなく、自動的に手が動いている。二人の時は会話のほうに気が回り、食事よりも会話が第一になるようだ。これが三人になると、食べ物を見つめ、鑑賞する時もあり、話題を考える時もあり、食事時間を心地よく満喫できるバランスのいい人数だ。四人以上になると食事というよりも食事会といった緊張感が出てくる。これはかた苦しいのではなく、食事以上のものを与え、また受けるような気がする。その場で同じものをいただきながら、同じ時を過ごす。同じ時を過ごしながら、同じ空気を吸う。

「同じ釜の飯を食うと急に親しくなれる。」同感である。
食事を共にすることは比較的簡単だ。私たちは自分のこと、身の回りのことは自分でしなければならない。他人と共にすることはほとんどないのだが、食事だけは毎日、人間がすべきことの中で、簡単に共に行うことができる。毎日のことなので空気を吸うように食事を取ることも当たり前と思う。

しかし食事は人間に日々の糧を与えてくれるばかりでなく、広い意味では文明を発展させてくれた。植物のように水だけで生きるカラダであったら、または多くの動物のように栄養バランスを考えることなく、一つのものだけを食べていればよかったとしたら。今の文明はなかっただろう。

人はパンのみでなく、おかずも必要だった。そのおかずのおかげで私たちは豊かな文明を楽しんでいる。

暦の縁起、人生の演技

月が変わると、見えない世界が変わってくる。運(つき)も変わる。

それぞれの月がつきを持っている。一年一月から十二月までそれぞれの月の持つ役割がある。十月のつきは秋の運びが巡ってくる。秋は多くの方面で収穫のある良い季節だ。その次にやってくるつきは少し落ちて、やがて一月が新しい年を告げ、前の年をごわさんにして、新しい運(つき)が全員にやって来る。

暦は役割があるがそれを取ると、本質が残る。十三日といえば、キリスト教では縁起の悪い日と考えるが、縁起の悪い日から縁起の良い日に向かうので、結局は縁起の良い日である。易などで縁起の良し悪しを占うが本質を見れば、縁起の悪い日は一日たりともないことになる。三百六十五日縁起の良い日なのである。

人間も親として、子供として、友人として、社会人として、色々な役割を持っているが、それらを取り除くと本質が残る。世の中は舞台であって人々はそれぞれの持つ役割の演技をして生きている。しかし人生は演技だけではない。演技を取り除いた時に残るものが大事な姿だ。

演技に徹するのは役者の使命だが、人間は役者ではない。本人の意思でその役をやめたり、続けたりすることができる。母親の役が好きな人は、死んだ後もその役を続けていることもあるだろう。父親の役を捨てて冒険の旅を選択する人もいるだろう。

誰でも先が見えないのが人間の人生。自分で開拓して行うべき課題は、与えられた環境であり、生き方だ。年齢に関わらず九十歳になっても世界が広がる経験をすることができる。その楽しみは役割と演技から離れて知ることが多い。

週の始まり、月曜日

人の気持ちは曜日によって影響されるものである。月曜日は働く人々や学生にとっては憂鬱な曜日であることが多い。週末休みの人ならば、切り替えが必要である。月曜日の迎え方を工夫したらどうだろう。

新しい週を迎えるのに、また働かなくては、、と古い考えや予想が入ってくる。真っ白な一日を与えられれば、期待もワクワクと楽しいはずだが、新しい週といっても、もう時間の使い方は決まっている。逃げられない。責任がある。気持ちよく月曜日を迎えるには、月曜日を好きになるしかない。月曜日は嫌だなあ、と多くの人が思うので、その考えや気持ちに引き込まれてしまう。月曜日の朝の通勤電車の中を思い出せば、世間一般の気持ちは共有できるだろう。

月曜日は始まりの曜日である。(日曜日を週の始まりとする国もあるが)始まりを迎えられたことに感謝する気持ちを持つ。始まりがなければ、物事は始まらない。しかも週末という間の休息を頂いている。そして毎週、毎週、始まりを頂いているのだ。

一週間という人区切りがあることはありがたいことだ。人が活動するのにちょうどいい長さの単位だ。始まって終わって、始まって終わって、の一週間の繰り返し。

終わり良ければすべて良し。これを実現するために、月曜日を始める。始まりはどんな状態でもオッケーである。寝不足でも、体調が本調子でなくても、良き終わりを目指して進んでいけばいいのである。

月曜日を迎えるのも気分次第。月曜日を温かく迎え入れ、憂鬱にならずに楽しい週末を迎えるように祈りつつ、とりあえず5日間生活すればよい。一週間ごとに生まれ変わった気持ちで週を重ねれば、良き時は流れていくだろう。

学校や職場に属していない人でも、リズムを作ることは大切である。呼吸を正しくすれば、よく生きるのと同じだ。家にいても普通の人は日課があるだろう。それに合わせて、週単位で賃金労働でなくとも、仕事を考え、週単位で始めと終わりのスケジュールを立てる。そしてその始まりがあることを改めて感謝するのが、月曜日を好きになる秘訣だ。

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