買い物、お金、本物を持つ (1)

買い物とは言わずと知れた、お金を払って品物をもらう行為である。お金を消費する行為だ。お金だけを消費するわけにはいかない。代わりに品物がついてくる。お金だけ消費したい人は、どこかに寄付するか、贈り物をするしかない。

お金を消費することで、精神が安定することがある。お金を貯めることでも精神が安定する。反面、お金を消費して不安定になることもある。お金を貯めても、まだ蓄えとして足りないのではないかと、不安になることもある。お金の消費は一種の精神への刺激となる。良くも悪くも働く。

お金は人間が作り出した便利でや厄介なものである。精神によく働いた場合、お金は喜び、またここに来ようと思う。悪く働いてしまった場合、お金は恐れ入って、もう来たくないと思う。お金はとても正直者だ。

お金は嘘をつかない、頼れるのはお金だけだと、お金を賞賛している人は多い。好かれているうちは、お金も気持ちよく働き、留まるが、自由がなくなるともっと動きたいと思う。お金は生き物だから、長い間留まっていたくない。長い間留まっていると、お金はお金でなくなり、ただの紙切れになってしまうことを知っているのだろう。

お金は最近はその姿を見せずに数字の記録になりつつある。お金は意志を持って走り出し、飛び回っている。他のお金たちと連携して、人間に協力しようとか、最近自分たちを粗末に扱っているので、反省の機会を与えようとか、言い合っている。

はじめに言葉があった

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」

これらの言葉は新約聖書ヨハネ伝冒頭の言葉である。この偉大な言葉は誰によって語られたのだろう。聖霊によってのみ語られた言葉だ。聖霊によって語らしめられた言葉は、永遠に残る。人間を通して聖霊が言わしめるのである。

多くの格言、名言も本人が気づかずして言わされている。積み重なる経験の結果の言葉もあるだろう。本人が体得した、目に見えないものを言葉によって表し、記録し、残すことができる。人の一つ一つの経験は忘れ去られるものであり、当人さえも覚えていられないが、言葉が経験から得たものを永遠に残す。

言葉は命の核となって生き延びている。

様々な言語が世界中にある。これはなぜだろう。一つの理由は民族間に距離を置くためである。遠くから眺め、考えるためである。適度の距離は、距離を縮めるために役に立つことがある。距離がないと、対峙しているものの全体が見えにくい。少し離れると、輪郭が見えて相手を理解しやすい。

言語の違いは相手の輪郭を掴むためだ。母国語のように中身を全て理解することは難しいが、輪郭だけなら簡単だ。外国語を習う人は輪郭を知るために学ぶことが大切だ。輪郭を知った上で、理解を深める。語学の取り組みも輪郭というカタチから入っていくと長く続けられる。

精神統一について (2)

例えばオリンピックはもともと個人の精神と深く関わっている競技大会であることはその起源を思い出してみれば異論はないと思う。「勝負を争うのではなく、参加することに意義がある。」とは有名なクーベルタン男爵の言葉だ。この是非はともかく、負けた人でも精神を十分に集中し統一できた人は、悔し涙に暮れることはないだろう。精一杯やりきったという満足感を持てるはずだ。

精神統一は、個人の力量であると同時に、外的要因に左右されることもある。それをうち消そうとしても、邪魔しにやってくる。かえって内部の邪魔より、外部からの邪魔の方が多いかもしれない。

世の中では精神を統一しようとした結果、精神を分裂させることもあり得る。
分裂した精神は、またふつうの状態に戻すことは可能だ。現在の医学では即効性のある療法は見つかっていないようだが、外から精神が自分の中の精神をコントロールしてくれる存在があれば可能だ。精神は精神を持って正す。

大精神に届けば、人の可能性が大きく広がる。神技も可能なくらい広がる。精神が自由に行動するのは知られていると思う。自分の中だけの自由ではなく、自分から外に出て行動できる自由だ。コントロールされるのを嫌う人間はそのために現在不自由な面もあるが、将来は逆に精神を大精神にコントロールされることにより、自由になることができる。そのための条件は、先ほどの「精神は精神を持って正す」という点だ。

精神統一について(1)

よく精神を統一するというが、これは精神を集中するとは異なり、後者の方がよく使われる。精神とは複数のものだろうか、それとも単数なのだろうか。精神を見た人がいないので、明確な答えはないが、統一するとは複数として扱っていることになる。集中も、人口の集中とか、問題が集中したとか、複数の数が散らばっているものが、人所に集まることを意味する。

それでは、精神とはなんのことだろうか。個人の精神もあり、団体における精神もあり、芸術の世界での精神もある。精神統一といえば、個人の内面的な働きを意味するが、精神統一をした結果、単なる一個人の体験以上の成果が得られることもある。神技に近いことが達成できることもある。

競技会では精神を集中するのがうまい人、精神統一のできる人が高得点を得られやすい。得点はどの競技にも共通して精神のコントロールの上手な人順に並んでいると言ってもいいだろう。その日の体調、環境も多少影響するが、いちばん影響するのは精神のあり方だ。体が不調でも精神のコントロールが上手な人はマイナス要因を克服できる。

時間の進み方

多くのスポーツ競技大会では時間を競う。どこでも時間が短い記録の方が良い記録となる。遅い時間は誰でも到達できるからである。しかし非常に遅い時間の記録となるとまた難しいものである。百メートルを進むのに5時間かかって直線に進むとなると、カタツムリになったつもりで進まないと達成できない。

一般に早ければ早いほど良いのが、人間社会の風潮である。遅ければ遅いほど良いのが、年齢のとり具合、お金の減り具合、悪い知らせなどである。締め切りや約束がまだ終わっていない時など時間が止まってほしいと思う。

遅い記録の部類で一番のものは、おそらく歴史の進み具合である。歴史の進み方は非常に遅いので、時々繰り返してしまう。行ったり来たりと進み、ある部分繰り返しが起こる。行ったり来たりとは、煮え切らない動きであるが、人間特有の動きである。他の動物では見られない動きだ。思いっきりが悪く、躊躇しながら進む。それでも、後ずさりしつつも、全体では前に進んでいるのが人間の進み方の特徴だ。

陸上競技で走るように、最短距離を選んで最高速度で進むのは、スポーツという特殊な状況下だ。普段の生活では、行ったり来たりの動きで前に進んでいる。これは、考えながら進んでいるからだ。スポーツ選手は走っている時は無我夢中であると思う。雑念を抱きながら走ると、良い記録は出せないだろう。

人間は考え始めると、速度が遅くなるものである。考えない人ほど、早く歳をとり、ある意味では健全な生活、人生を全うして逝く。考えながらの人の人生は速度が遅いので、多くの人は歳を重ねるのを遅く感じる。もちろん、これは内面的な歳の取り方のことで、見た目に歳より若い、老けているという意味ではない。考えながら人生を送った人は、体が弱くなって他界する時が来ても、中身は歳をとった感じがしないので、とても不思議な気がする。

年齢制度がなくなれば

時間は計るものではなく、流れるものであった。
時間を計った結果、人間は自分の年齢にしばられることになったが、時間を計らずに流れるままにしてみるとどうなるだろう。

人間が一年毎の区切りを意識することなく、そして年齢制度が全くなく、その結果、自分の年齢の意識を持たずに一生を過ごしたとしたら、それはどんな一生となるだろう。

小学校に入学するのも、学校を卒業するのも、結婚をする時期も、すべて自分の気持ちで決める人生があるとしたら。そして、死でさえ、生きることに十分満足したと本人が納得した後、その時期を選択できる人生であったら人間はどんな行動パタンになるだろう。

それはきっと流れるような人生だろう。時間は存在せず、時の流れのままに生活すれば、その生活は流れるようだろう。節目がなく、自分だけの責任で教育を終え、仕事をし、結婚をして家庭を築き、老後を迎える。他人の成長度を見るのは、その人の顔と態度と言葉だけ。年齢で人を計ることが絶対にない世界。

今のこの世界は知らない人のことでも、年齢さえわかれば、その人が人生のどの部分を歩いているか知ることができる。当然、人間も自分の年齢に合わせて行動しようとする。人間は時間によって作られているとも言える。

そのような大切な役割をしている「時間」から、解放されたら次々とやりたいことの出てくる人々の中には、時の立つのも忘れて、気がつけば周りの人は知らない人ばかり。浦島太郎も増えるかもしれない。

この世では年齢の壁があるが、時間にしばられて生活しているのが人間世界なら、時間がゆったり流れている世界も存在しているのだろう。

 

年末を迎えて、お開きの言葉(2)

その家は家庭とは違って神様の家である。その家の数は魂の数だけではない。もともと家は複数が住むもの。神様の家も複数の魂が入っている。

家の形は共通したものがある。人間の家のシンボルは、円錐体をなしている。神様の家は地上とは違って逆さまの円錐体をしている。

安定の難しい逆円錐体であるが、これが神様にとっては安定の良い円錐体になっている。安定が悪いようで実は安定している。底から上に広がっているので「神の氣」を逃さない。下方を頼り、だんだん上方に頼る。下の方に「神の氣」があり、ここが中心でその家が回っていく。コマのような動きで中心点を保って家が回転するようになる。

そこは空間の中で絶えず神の氣を受けて回転しており、魂が成長して行く。その魂は複数であり、その中で成長が高まって行く。中にいる魂は家族ではなく、親族のようだ。家族のように絆は深くないが、親族のような距離感を保つつながりだ。

人間の執着は取って良いものと取らないで良いものがある。取るべき執着は仏教でいう百八の煩悩。

取らないで良いものは三つある。生への執着、性への執着、そして成への執着。属性となっているものは取らないでよい。

年末、お開きの言葉 (1)

今年も余すところ5日間だ。過去を振り返ると苦しかった期間も楽しかった期間も一瞬のことのようだ。

人間は誰でも生きることに執着している。生きるとは体が動いていることを言う。人間はこの生きることに対する執着がある。病気で寝ている人は静養しており、大胆に体を動かすことができないでつらいと思う。動いていることが生きている証拠である。

生存への執着のほか、人間は性に対する執着を持っている。そして成長への執着もある。

成長したいと思う執着は尊い執着だ。死んだらおしまいと言う人でも老後の楽しみを求めるのは成長への執着の表れだ。何かを学ぶこと、学びたいと思うのは、人間の成長への執着。カラダがある期間の個人的な執着だ。

一方、カラダのない、魂が持つ生、性、成への執着とは?
性別を持たない、永遠の魂には生、性への執着はない。
あるのは成長の執着だけだ
この成長は個の成長だけにとどまらない。プラス、成長する家がついてくる。

成長する家とは、家があり、その中で魂も成長して同時に家も成長する状態をいう。家と共に己の成長があるが、家の成長に続いて、それから己の成長がある

 

暦の縁起、人生の演技

月が変わると、見えない世界が変わってくる。運(つき)も変わる。

それぞれの月がつきを持っている。一年一月から十二月までそれぞれの月の持つ役割がある。十月のつきは秋の運びが巡ってくる。秋は多くの方面で収穫のある良い季節だ。その次にやってくるつきは少し落ちて、やがて一月が新しい年を告げ、前の年をごわさんにして、新しい運(つき)が全員にやって来る。

暦は役割があるがそれを取ると、本質が残る。十三日といえば、キリスト教では縁起の悪い日と考えるが、縁起の悪い日から縁起の良い日に向かうので、結局は縁起の良い日である。易などで縁起の良し悪しを占うが本質を見れば、縁起の悪い日は一日たりともないことになる。三百六十五日縁起の良い日なのである。

人間も親として、子供として、友人として、社会人として、色々な役割を持っているが、それらを取り除くと本質が残る。世の中は舞台であって人々はそれぞれの持つ役割の演技をして生きている。しかし人生は演技だけではない。演技を取り除いた時に残るものが大事な姿だ。

演技に徹するのは役者の使命だが、人間は役者ではない。本人の意思でその役をやめたり、続けたりすることができる。母親の役が好きな人は、死んだ後もその役を続けていることもあるだろう。父親の役を捨てて冒険の旅を選択する人もいるだろう。

誰でも先が見えないのが人間の人生。自分で開拓して行うべき課題は、与えられた環境であり、生き方だ。年齢に関わらず九十歳になっても世界が広がる経験をすることができる。その楽しみは役割と演技から離れて知ることが多い。

大人の世界

子供と大人はどちらが上だろう。
単にどちらが上かと言えば、子供が上である。
大人が子供を上で自由に泳がせている。

子供は上なので天国に近い。
成長するに従って天国から離れて行く。
子供はだんだん重くなって大人に向かう。
これ以上下がなくなった時、下にぶつかり上昇する。
上に昇るに従ってまた子供に戻って行く。

上にいる状態が子供であることだ。
上の方が楽な状態で下を見ることもできる。
下の大人は一度通ってきた道を思い出すことができる。
また天国の道を昇る。
いつか来た道だ。

このように幼な子になって天国に入って行く。

意外にもそこは大人だけの世界と変わる。
成熟した、しかし完成されていない世界。
みんな学ぶことに一生懸命、
学ぶ楽しみを身につけている大人の集まり。
教える人はいない。

自分で学び、自分で気づかなくてはならない。
大人の立場だ。
親子の役割を負うことなく、個として生きる。
個としての役割があるだけだ。

 

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