柱の上の屋根

柱といえば、その上は天井、屋根があるのが普通の家である。天井や屋根には多くの水平な部分がある。柱がタテ線で、屋根がヨコ線となって力を出し合っている。

最初、屋根は雨露をしのいだり、日光を遮ったりするために作られた。屋根は人間が快適な生活を送るために調整役をしている。

調整を正しくすると快適になる。人間関係の調整、意見の調整、体温の調整、湿度の調整、音量の調整、水量の調整、風の調整、などなど。きりがない。

地表から100キロ内の大気圏にあるオゾン層も一つの屋根の役目を果たしている。オゾンは有害な紫外線から私たちの皮膚を守ってくれるが、近年のオゾンホール問題で屋根に穴を開けたことが知られるようになった。その先には宇宙の空間がある。地球を取り巻く小宇宙、大宇宙の空間もまた地球の屋根の役割をしている。人間世界を快適にするための調整をしている。

その空間に雨漏りがあると、人間世界でフロンガスの規制など、修理することが必要になってくる。オゾンホールが大きくなると、科学、天文学で推測できない不思議現象も多くなるかもしれない。大気圏や宇宙の空間という屋根は、地表に近すぎても遠すぎても、調整はうまく行かないに違いない。

柱 (2)

地震で崩れた橋は、補強して再建され、さらに強い橋になる。柱が支えきれなくなって崩れても、悲しみは乗り越えられる。生まれ変わることができるから。一度だけの柱ではない。柱は何回でも立て直すことができる。

人間の歯も生え変わる。歯も柱と言える部分だが、神様の柱は2回以上生え変わることができるようだ。人間も男、女、金持ち、貧者といるいるな役に生まれ変わってくる存在と仏教の輪廻転生説は解く。

柱としての役は不幸な時に現れる。連続して不幸が起こる現象は人間世界では後を絶たない。スポーツ競技でも、人間は「負け知らず」ではあり得ない。いつか必ず負けを体験する。人間は弱ってくるからである。年齢(よわい)には勝てない。しかも人の深い同情を集めるのは最初の不幸、そして2回目の不幸で、3回目になると残念なことに同情されなくなる。

柱は何度も生まれ変わるが、不幸な出来事も生まれ変わって力を得ることができる。過去の力より現在の力の方がいつも大きい、という方向に持っていくことができる。

「方向性」が正しければ不幸現象に遭遇しても、力強くなって生まれ変わることができる。そのための条件は、「柱の方向が天に向かってまっすぐ九十度になっていること。」

柱 (1)

大相撲の土俵の周りには昔、四つの柱があった。神道の教えで四ツ柱の神様が、天地創造の偉業を分担されたとある。神様の行い(具体的な役割)に柱という言葉を使う。他界した人間の霊に対しても柱という単位を使う。

柱はタテになっているもの。ただ立っているのは塔であるが、柱は支えるものを持っている。それは自然の力、天、家族などだ。支えるものがあって天地創造が成り立っているということだろう。

支える側と支えられる側とどちらが楽かというと、支える方が楽である。耐えきれなくなれば、壊れてそれ以上無理する必要がないからである。支えられる方は、自分の意志通りに動けないので決して楽ばかりではない。足の不自由な人を支える場合、支えられて歩くのも楽ではない。支える方は力の調整ができるので、ある意味楽だと言える。

そして柱は一度崩れることで調整できる。

豊かな人間関係に憧れる (2)

同世代の人ばかりではなく、年齢が離れている友人はいるだろうか。
社会的地位が自分と格段に違う友人はいるだろうか。
自分と全く違った分野を専門にしている知人は?
本人が何らかの宗教を信仰している場合でも、異なる宗教を信じる友人を持ち得るだろうか。

これらの質問の答えにイエスが多い人は豊かな人間関係を楽しんでいる人たちだ。

こんな豊かな人間関係に恵まれる人の割合は少ないだろうし、内的外的要因があってなかなか簡単に作れない。年齢的にも人生のその時その時を一生懸命生きてきた、ある程度、年齢を重ねた人が持ち得るものだ。しかも他人に興味を持ち続け、自分を確立していなければならない。

私には歳をとってからの理想的な境地とも思える。それは憧れであると同時に、歳を重ねた現在ある自分の「豊かさへの欲求」の一つにもなってきた。

豊かな人間関係に憧れる (1)

豊かな人間関係を築くことは多くの人の願うところである。

豊かな人生、豊かな生活、豊かな人といった表現と同じく、豊かな人間関係の意味は個人にまかされている。日本は豊かな国になったと言われるが、この場合は物質的に豊かになったという意味で、精神的には戦争前の方が豊かであったとも言われる。しかし精神文化が足踏みし、貧しく見えても、国が豊かであれば、豊かな人間関係を築くチャンスは多くなるだろう。

人間関係の豊かさの尺度は友人知人の数ではなく、多様性にあると思う。

例えば、政治家は一般的に言って顔が広い。様々な組織、グループや地域の人々を多く知っている。しかしその関係は政治家対選挙民である。所属している政党の仲間も多いだろう。そしてその関係は同僚である。様々の専門家や陳情に訪れる国民と話す機会も多い。これらの活動は全て一政治家としてなされている。本人の役どころ一本に対しての人間関係だ。

一人の人が役どころにとらわれずに他人と接すれば、違った筋の人々に会える。自分の立場を制限しなければ、思いもかけなかった人々とお互いの心を交流することができる。多くの人は自分と違うタイプの人を初めから敬遠してしまいがちだ。豊かな人間関係とは単に友人知人の数ではなく、自分と違ったタイプの人をどれだけ知っているかという点に関わってくる。

究極の読書 (2)

このことから言えることは、読書した後が大切だ、ということである。読書した後に意識的に考えることをしないと、読んだ内容に対して、感情的に反応しただけということになる。感情的に反応したことは身にならない。多くの時間を割いて読書に没頭し、知識を得ても、その後の思考過程がないと無駄になるということだ。単なる娯楽、個人の趣味で終わってしまう。

究極の達人の読書は、まず本を取り出し、表紙を見て内容を考える。第一ページを開いて、次のページを想像するといった具合に読み進む。速読はできない。考えながらの読書であるから、考えないうちは、次のページに進めない、開けられない。しかも考えが正当な時だけ次のページに進めるという、ゲームのような読書方法である。

しかしこの読書方法の優れている点は、無駄な読書が皆無というところにある。読み終わった時の充実感は計り知れないものがある。自分で考え出した本のようだ。本を物にすることができる。これこそ究極の本物の読書の姿だろう。

究極の読書 (1)

本の好きな人を読書家という。
本を読まないが本が好きな人もいる。この場合は読書家というより、本愛好家とでも呼べるだろうか。

本はどこにでもある。あの世にもあるだろう。読書家は退屈しない。読書が好きな人は本なしでは間が持たない。本なしでは有意義な時間を過ごせないと思う。自分の頭だけで考えるには限界がある。自分の考えを発展させるためにも、本の助けが必要だと思う。

読書している間は、自分の考えはさておき、本の中で筋を追っていかねばならない。時には、本を読み始めた後、さほどのめり込めない時や、興味を持てないまま読み進んでいることもあるだろう。このような時、自分の考えで、つまらない本だと判断しているのではなく、心で判断している。自分の考えはさておいて、読み進んでいる。本の内容について反応しているのは心である。

いやそうではない。自分が頭で考えながら読んでいるのだ、と言われる方もおられるだろう。それは確かに思い違いである。人間は本を読んでいる時は、その内容に付いていくために脳の一部を使っているが、思考するための部分ではなく、字を認識するための部分を使い、あとは心の働きがされるだけだ。自分の考えの出番は読書から離れた時から始まる。本の内容に対して、思考で反応する。読書中は心で、感情で反応している。

手の働き (2)

手には裏と表がある。足にも裏と表があるが、手ほどはっきりしていない。普通、手のひらが裏になるが、実質的に考えれば、手のひらは表である。手相があるのは手のひらで、そこにメッセージがある方が、手紙の文面と同じく、表である。

手のひらが平らになるのも面白い。平らになるので音が出せる。敬礼もできる。手が曲線しか作れず、それで敬礼しなければならないとしたら、その場の空気感も違ってくる。直立不動の姿勢の中でも、手の働きは重要だ。手がまっすぐ伸びていれば、直立不動の気が失敗なく、見ている人の側に伝わってくる。敬礼、直立不動などは、軍隊、自衛隊の人でもなければ、普通の大人は縁のないポーズであるが、見る側として共通体験をできる。まっすぐの気が伝われば、両者が体験者になり得る。

かくも魅力的な働きをたくさん持っている手である。私にも見えない手があるが、これを奥の手と呼ぶ。自分だけが知っている手である。

手の働き (1)

手。人間の手をしげしげと見つめると、まことによく出来ている作品だ、と思う。五本の指、それぞれの位置、長さのバランス、全体の形、等々。私は手に現れる人間の内面の感情を見るのが好きだ。何故ならば、醜い手の表情がないからだ。

顔の表情は時として、抱きしめたいくらい、素晴らしい表情を作る一方、正視に耐えられないくらい、意地の悪い表情も作り出す。その素材は、目、口、眉が主なものである。手と同じく五つの部位で作り出す。

手の表す表情で一番多いものが、恥ずかしさ、落ち着かなさ、緊張感などであろう。その次は、断固たる決意、例えば、こぶしを握りしめてやるぞ、という意気込み、絶対に負けないぞ、と頑張っている最中の表情であろうか。手を打って嬉しさを表現する人もいる。手をたたいて喜ぶ。反対に手を握って悲しみ、辛さ、悔しさに耐えることもあるだろう。手は道具を操るばかりでなく、情緒面では、逆に手が道具になって見えない感情を表すことができる。

買い物、お金、本物を持つ (2)

お金持ちが物持ちであるとは限らない。最近はお金持ち貧乏が多くいないだろうか。お金はあっても本当に必要なものは持っていない人。本当に必要なものは、人によって違うだろうが、人間に共通して必要なものを持っていない金持ちも多い。

それは人間として必要なもの、本物を持つことである。他の動物は本物を所有することにこだわらない。人間だけが本物を持てる動物なので、それを持つべきだ。本物とは何か? 本当のものとは、決してすたれないもの、いつまでもあり続けるものだ。よく言われるように本物だけが最終的に残る。

人は死ぬ時は何も持っていけないが、本物だけは一緒に持って行ける。偽物は幻影のようなものだが、本物は実体があるのでいつまでも消えることがなく、それを所有した人の付属物になることができる。

本物を持つことは趣味ごとではなく、必要なことである。長い人生の中で、一つくらいは本物を持たなくては、その人の人生自体、幻影のように何一つ残らないものになってしまう。

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