北鎌倉、円覚寺を訪ねた (2)

円覚寺は1282年、私寺として、北条時宗が開山した。
元寇の戦没者を追悼するため、中国から高僧、無学祖元を招いた。その2年後に亡くなった時宗の墓が「佛日庵」だ。歩き疲れて休みたいと思っていたところ、佛日庵の弁天茶屋のポスターが目に入った。迷わず、お抹茶券を購入し、赤い毛氈の上でお抹茶と鳩落雁を頂いた。

残るは国宝「洪鐘(おおがね)」だ。坂道を下ったところに上り階段があった。先が見えないくらいたくさんの階段が見える。最後の頑張りを出そうと、いつもなら諦めるところだがこの日はエネルギーがあり、階段を上った。やっと頂上に着くと小さな弁天堂。向かいに洪鐘があった。大晦日に使用されるもので一般人は触れない。鐘の横のベンチに若い女性が座ってた。他に誰もいない。共にマスクを付けていたが、目が合い、ハアハア言いながら、「こんにちは」と声をかけた。

聞くと「フランスから来て、日本で働いている」と言う。その日の朝、彼女が近くの公園で見かけた迷子の白いウサギの話になり、写真を見せてくれた。動物が好きで「気持ちがわかる」と言う。その後、話が弾んだ。30分かけて小町通りまで歩き、夕食も一緒に頂くことになった。

円覚寺の花

その間、木に駆け上るリス、庭先のカラス、トンビ、小町通りにある人気の豆柴カフェに住んでいる黒色シバと通常の茶色のシバ犬。散歩途中の3匹にも出会った。鎌倉ならではの風景に加え、コロナ禍で悩むフランスの厳しい事情も聴くことができた。思いがけない出会いの小さな旅になった。

北鎌倉、円覚寺を訪ねた (1)

10月29日、今月いちばんの秋晴れ。
北鎌倉の古民家ミュージアムの「絣展」を訪ねるつもりで家を出た。北鎌倉駅を13時近くに下車。すぐに円覚寺の階段が現れた。その先が古民家なのだが、この秋晴れで建物の中に入るのはもったいない。急な階段を見上げて迷ったが、じっくり円覚寺の境内を散策することにした。

結局、境内の建物は数多く、3時間近くも滞在し、絣展は後日訪ねることになった。横浜に住んでいても、参拝は今回初めてだ。興味深く観てまわった。臨済宗の大本山で私の学生時代から週末は座禅の会が催されていた。

夏目漱石が神経衰弱で苦しんでいた時期、この寺で参禅した。
「佛性は白き桔梗にこそあらめ」
漱石の句碑が残されている。この句で当時の漱石の心情が伝わって来た。漱石は正岡子規と親しく、小説以外に俳句や漢詩、書、水彩画も描いた文化人。49歳で世を去った。オーストラリアでルームメイトだったパティが漱石の勉強をしていたことを思い出した。

方丈、金沢翔子書の屏風

方丈の建物には金沢翔子書家の大きな作品がどっしりと置かれていた。建物の縁側には椅子が置いてあり、日本庭園の池が鑑賞できる。方丈の中も訪れる人が少なく贅沢な空間だった。

ベルリンから来た禅僧、ネルケ無方さん

10月17日NHK教育テレビ「こころの時代」で禅僧のインタビュー、紹介番組を観た。1時間の番組で禅のお話はわかりやすく、体験談は興味深かった。

ネルケ無方さんは兵庫県安泰寺の運営を任されている。18年間、山奥で自給自足の生活を実践した。海外や国内から受け入れた雲水との修行も語っている。彼には高校生の時から「生きる意味とは何か?」のテーマがあった。祖父はキリスト教の牧師である。大学では哲学を学んだ。その問いの答えを求めて日本にやって来た。

寺では多くを説明されず、日本語の壁もあった。厳しく過酷な座禅や毎日の料理、お米の炊き方、すべて試行錯誤だ。今は高い位も得て、リーダーになっているが、今年安泰寺を2代目に譲って、大阪で新しく出直すことを決めたと語る。現在52歳である。

貨幣制度がない時代、お金がない時代は「人々は天地いっぱい生きていた。今はお金のせいで人生がゲームになっている」
「生きる意味とは?」ご自身のテーマに対して、その答えは「ない」そうだ。
「ただ呼吸して生きることだ」と語る。

厳しい修行を経験された結果で、孤高の禅僧の真実だと思った。

胃カメラ検診の1日

10月16日、胃カメラ検診を昼近くに予約していた。
美味しく食べることは元気のもと、胃が元気であることが大事だ。胃の状態を10年ぶりに検査してもらった。

前回の記憶は薄れていた。今回も鼻からファイバースコープを入れて10分程度の検査。検査前に胃をきれいにするコップ半分くらいの液体を飲んだ。鼻に入れるゼリー状の麻酔、別のスプレー液は喉にかけた。注射の麻酔はなく、一部始終をモニタで確認できたのはよかった点だ。「喉もと過ぎて」少しは楽になったが、その前は痛みがあり、力を入れていたので、息をするの忘れていた。

涙も出て来る。途中、先生が「呼吸できますか?」と言われ、呼吸することを思い出した。そのあとは、ずっと声を出しながら深呼吸していた。事前に心得を知るのは大事だった。今回は意識的に考えないようにして当日を迎えたのが反省点だ。胃壁は問題なし、食道に軽く炎症あり。その場で説明があった。

大仕事を終えた解放感。昨日夕食から絶食していた。1時間後に食事をして良い、ということで、胃カメラ無事終了を祝って、近くの日本食レストランで秋の味覚の会席料理を頂く、少し贅沢なランチを思いついた。松茸土瓶蒸しもついている。何十年振りかの松茸お澄まし汁。これから何回、秋の味覚を食することができるだろう。

ランドマーク69階から
秋の横浜港を臨む

窓からは横浜港を一望できる。飛鳥Ⅱも停泊している。

映画「ある画家の数奇な運命」

10月8日、みなとみらいにあるツタヤカフェの2階にある新しい映画館に行った。シートはリクライニングになり、音量も大き過ぎず快適だ。空調の微風が少し気になったがコロナ対策だろう。

この映画はドイツの著名な「新表現主義」の画家、ゲルハルト・リヒターを描いている。画家の希望で登場人物は特定できないように脚色されている。1930年代からのナチス時代から始まる。戦後、主人公のクルドは妻と共に、西ドイツのデュッセルドルフに移住した。ナチスの安楽死事件、その後の家の血統を尊重する義理の父の行動など重いテーマがある。そのような時代の中で、主人公のクルドはマイペースを貫き、世間の人々と異なる時間を過ごし、自分を納得させた。妻の揺るぎない愛を得たクルド、苦悩の末、芸術家としての自分のテーマを見出した。そして初めての個展で評判になり、成功していく。

日本にもリヒターの作品がある。2016年、瀬戸内海の無人島の豊島に常設された。ネットで画像を検索した。美術館建物は角材のようでシンプル、デザインは本人が手掛けた。作品は14枚のガラスの立体オブジェで、周りの海や陽光、虹の光を楽しめるそうだ。

ガラスに写る訪問者等や海が重なって映り込むが、これも作品の一部とあった。映画を見た後、よく理解できる。

 

ブログ開設からの一年

2019年の10月7日にブログを開設し、15日に始めての投稿をした。
ちょうど1年たった。初めは旅行記も多かったが、コロナ禍で五ヶ月で中断。それでも日本の歴史的文化的な場所を5箇所、巡ることができた。11月の伊勢神宮から始まり、天橋立、奄美大島、京都迎賓館と宇治市、最後は3月に米子城跡と足立美術館と訪ねることができた。まだまだ行っていない名所が数多くある。

エッセイや詩の作品もまとめた。すると今年初めには100作品以上になり、読みづらい。電子書籍を考えた。目次をつけると読みやすく、消えることもない。古稀以降の計画を前倒しにして、4月から準備に取り掛かることにした。今は最終の校正作業をしている。

シニア生活のエッセイは「原則、週一回月曜日の午後に投稿する」と決めた。回数が多くなると、内容も文章に対しても、考える量が違ってくる。

今年、ホッとしたことはコロナ規制が強まる前の2月から4月末までかけて、マンションの居住部分の給水管更新工事が完了したこと。年季が入った建物は50年経ち、水圧が弱くなっていた。通常の豊かな水量が蛇口から流れる。以前と比べると天国だ。

日本には〇〇がある

最近、「日本には〇〇がある」の表現を聞いて印象に残っている。
テレビのコマーシャルでは商品名を入れて、「日本にはA食品がある」。
ネットのコメント欄では「日本には魅力的な少女Aがいて羨ましい」など。

ビジネスの世界では文章や報告は、”Keep it short and simple” 略してKISS がよいとされている。上の表現は短くて、多くの解釈を持っている。「日本には菅総理がいる」と多くの人は支持するだろうか。「アメリカにはドナルドがいる」とはまた違った解釈ができそうだ。

日本語は行間を読んだり、字面で伝わったり、さらに多くの類語や多義語がある。それが功を奏し、昔から文学や和歌や、俳句や連句、川柳の本が多く残っている。今も多くの人の趣味、文化活動になっている。海外用に翻訳を試みると、もとの日本語より長く、説明的になることが多い。直訳しても真意を伝えるのは難しい。

「日本には〇〇さんがいる」の中に入る人物を探すと意外に難題になった。
今のところ、「日本には日本語がある」の例文がすっきりする。

 

断捨離シーズン

秋めいてきた。先延ばしにしていた断捨離を始めた。
実家の片付けは専門業者に依頼したので、出費は大きかったが苦労はなかった。今回は私の住まいとトランクルームだ。時間があるので、自力で丁寧に仕分けし、なるべく公共のサービスを利用することにした。三ヶ月くらいで終了するのが目標だ。

まずはパソコン。次はリサイクル回収業者に頼んで、衣類、靴、バッグ、CD、食器類、読書スタンド、テーブル、トースター、額類を持って行ってもらった。買取価格は合計2200円。買う時は高額でも、売るときはキロ単位で二桁や三桁の数字になってしまう。しみじみと物質が溢れる世界、消費生活、人々のゴミ生産量を思ってしまう。

しかし、良いこともある。長年見かけなかった、父からの土産の琥珀ネックレスや、30年前エルサレム旅行で購入した古代ローマガラスのペンダントが出てきた。
同時に、「宝の持ち腐れ」の反省点があった。気に入ったアクセサリーも使ってないものが多い。書籍も未読で良書らしきものが多くある。余生の時間を考えると、消化しきれない量だ。

高齢になったら、所有物の管理が出来ないほどの量は持たないことだ。「管理能力」があるうちに適正な量にして、気に入ったものを大事にしていく生活に切り替えよう。気分転換の買い物や雑貨好き。「でもそろそろ卒業しよう」と自分に言い聞かせながら断捨離を進めている。

懐かしい隣人に会った

去年の9月11日に母のための慰霊旅行を計画し、姉とドイツのアーヘン大聖堂へと成田空港へ向かった。ちょうど桜木町のギャラリーで、去年の秋にドイツへ水彩スケッチ旅行へ行かれた増田和雄個展の案内をタウンニュースで知り、懐かしいドイツの風景画を見に行くことにした。しかし思いがけなく、この日のメインは懐かしい隣人の再会となった。

建物のフロアーに着くと、以前実家の隣りに住んでいたSさんがブティックを経営していたことを思い出した。Sさんは引っ越され、もう10年近くお会いしていない。そのビル内で洋服を扱うお店は1軒しかなく、以前と店名が違う。しかし興味本位から、お店の奥を覗くと、以前と変わらないSさんが座っていた。お互いマスクをかけているが、すぐにわかった。

彼女も「久しぶりね。お母さんはお元気?」と急に現れた私を見て驚いた。長い立ち話になりそうな予感。店の奥の椅子に座って1時間くらい近況を伝えあった。彼女は大手の洋服メーカーと販売店を経営していた。実家の隣のビルではレストランも開業していた。母が去年5月に他界したことを告げると、「お母さんにはお世話になったのよ。いつも道路の落ち葉を掃除してくれて」とすぐに昔を思い出してくれた。彼女のご主人は以前カメラマンで近所の人とは話すことは苦手だったが、母とはよくおしゃべりしたそうだ。話している間、当のご主人がフラリとやってきた。だいぶご高齢になられた。

母は、ある時、庭の野良猫が食肉の塊を加えてやってきたのを見た。すると隣のレストランから盗んだのだろうと察し、「お宅のお肉ですか?」と届けたのだ。後日、箱に入った自家製のケーキをお礼に頂いた。母は若くして結婚し、専業主婦として日々過ごしたが、たまに、積極的な社会性を見せた。

近所に住む歩行困難な同年輩の婦人は、いつも車椅子での外出だった。母が同行したとき、道路に段差があることを見つけ、市役所に報告した。段差は後日、改修されたと聞き、感心したことも思い出した。

Sさんの洋服に出会ったのは40年近く前。会社員時代は、倉庫のセールで通勤服を選び、様々な服に出会った。今はお店が一つだけになったが、お元気で明るく営業されていた。
「続けるしかない。続けることが大事ね」
Sさんの言葉に、エネルギーをもらった。

菅官房長官と「相互扶助」

自民党の総裁選挙の最有力候補の菅官房長官は、報道番組でフリップにスローガンとして、「自助、共助、公助」と書いて短く説明していた。この手書きの言葉、テレビの前で「その通り」と思ったのだが、後からネットニュースを見ると、多くはネガティブな解釈の記事で驚いた。

現状では、「自助」については国民は各方面で工夫しており、盛んにならざるを得ない。「共助」も災害時の自衛隊や緊急時の対応班の活躍があり、交番の警察官は地域密着型で、アメリカや中国のポリスと比べることはないが、数段格段、市民に対して親切だ。「公助」も健康保険、生活保護など良い制度が整備されている。

これからは「相互扶助」がキーワードだと思っていた。世界中でお互いはお互いを必要としている。身近な人間関係や経済生活でも同じだ。「自助、共助、公助」が更に強化され、満足度が上がることを願う。

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