例えばオリンピックはもともと個人の精神と深く関わっている競技大会であることはその起源を思い出してみれば異論はないと思う。「勝負を争うのではなく、参加することに意義がある。」とは有名なクーベルタン男爵の言葉だ。この是非はともかく、負けた人でも精神を十分に集中し統一できた人は、悔し涙に暮れることはないだろう。精一杯やりきったという満足感を持てるはずだ。
精神統一は、個人の力量であると同時に、外的要因に左右されることもある。それをうち消そうとしても、邪魔しにやってくる。かえって内部の邪魔より、外部からの邪魔の方が多いかもしれない。
世の中では精神を統一しようとした結果、精神を分裂させることもあり得る。
分裂した精神は、またふつうの状態に戻すことは可能だ。現在の医学では即効性のある療法は見つかっていないようだが、外から精神が自分の中の精神をコントロールしてくれる存在があれば可能だ。精神は精神を持って正す。
大精神に届けば、人の可能性が大きく広がる。神技も可能なくらい広がる。精神が自由に行動するのは知られていると思う。自分の中だけの自由ではなく、自分から外に出て行動できる自由だ。コントロールされるのを嫌う人間はそのために現在不自由な面もあるが、将来は逆に精神を大精神にコントロールされることにより、自由になることができる。そのための条件は、先ほどの「精神は精神を持って正す」という点だ。