暦の縁起、人生の演技

月が変わると、見えない世界が変わってくる。運(つき)も変わる。

それぞれの月がつきを持っている。一年一月から十二月までそれぞれの月の持つ役割がある。十月のつきは秋の運びが巡ってくる。秋は多くの方面で収穫のある良い季節だ。その次にやってくるつきは少し落ちて、やがて一月が新しい年を告げ、前の年をごわさんにして、新しい運(つき)が全員にやって来る。

暦は役割があるがそれを取ると、本質が残る。十三日といえば、キリスト教では縁起の悪い日と考えるが、縁起の悪い日から縁起の良い日に向かうので、結局は縁起の良い日である。易などで縁起の良し悪しを占うが本質を見れば、縁起の悪い日は一日たりともないことになる。三百六十五日縁起の良い日なのである。

人間も親として、子供として、友人として、社会人として、色々な役割を持っているが、それらを取り除くと本質が残る。世の中は舞台であって人々はそれぞれの持つ役割の演技をして生きている。しかし人生は演技だけではない。演技を取り除いた時に残るものが大事な姿だ。

演技に徹するのは役者の使命だが、人間は役者ではない。本人の意思でその役をやめたり、続けたりすることができる。母親の役が好きな人は、死んだ後もその役を続けていることもあるだろう。父親の役を捨てて冒険の旅を選択する人もいるだろう。

誰でも先が見えないのが人間の人生。自分で開拓して行うべき課題は、与えられた環境であり、生き方だ。年齢に関わらず九十歳になっても世界が広がる経験をすることができる。その楽しみは役割と演技から離れて知ることが多い。

大人の世界

子供と大人はどちらが上だろう。
単にどちらが上かと言えば、子供が上である。
大人が子供を上で自由に泳がせている。

子供は上なので天国に近い。
成長するに従って天国から離れて行く。
子供はだんだん重くなって大人に向かう。
これ以上下がなくなった時、下にぶつかり上昇する。
上に昇るに従ってまた子供に戻って行く。

上にいる状態が子供であることだ。
上の方が楽な状態で下を見ることもできる。
下の大人は一度通ってきた道を思い出すことができる。
また天国の道を昇る。
いつか来た道だ。

このように幼な子になって天国に入って行く。

意外にもそこは大人だけの世界と変わる。
成熟した、しかし完成されていない世界。
みんな学ぶことに一生懸命、
学ぶ楽しみを身につけている大人の集まり。
教える人はいない。

自分で学び、自分で気づかなくてはならない。
大人の立場だ。
親子の役割を負うことなく、個として生きる。
個としての役割があるだけだ。

 

花は人間を待っていた

 

花の良さは、色、形、香り、そして人の心を和ませる。
空気をきれいにしてくれる。

花は人間が生まれる前からあった。
花は人間を待っていた。
見てもらうために、来るのを待っていた。

人は花を見て名前をつける。
花が名前を持っているのも不思議なこと。
山にも名前がある。
山は自然の一部であっても、名前がある。
人間が自然と関係を持った時に名前が付けられる。
子供やペットに名前をつけるように。
知恵を絞ってつける。
自然も名前をつけるとぐっと身近に感じる。

花が人間に害を及ぼすことがあるのだろうか?
花の害があるかというと、花は枯れるのが悲しいと思う。
花の命は短い、もののあわれ、はかなさを感じる。
この感情は、また素晴らしい感情になる。

花が枯れてもの悲しく思うのは、途中経過の状態だ。
花はまた種が育てば、枯れたものは復活する。
枯れることも花にとって、冬休み、春休みのようだ。
花はすべて良いものを人間に与えている。

悪い状態は後の良い状態となるためにつながる。

数字の力

数字には神様の特別な思いがある。

人間社会は数字でしばられている.
身長、年齢、年収など数字で作る壁が多い。
本来、数字には壁がなかった。
人間が数字を扱うと壁ができてしまう。

神様が扱うと、壁がなくなり、可能性が生まれる。
人間は数を数えたり、制限をするために使う。
神様は人間に力を与えるために数字を与えられた

たとえば、神様は人間に寿命を与えられた。
寿命は人間に力を与える。
労働力、体力、生活など時間によって、計画が立つ。

苦しい労働も永遠ではないから耐えられる。
百メートル競争も、力を最大限に出し切れる。
いつ終わるともなく走らなければならないとしたら。
不老不死が実現したら。

数字は上手に使って素晴らしい力を発揮できる。

筋と道のお話

筋の通ったお話は気持ちが良いもの。筋の通らない話は聞く人を不安にさせる。行く先、目的がわからないので不安にさせる、曲がった話。

筋が通っていれば、姿勢を正して聞くことができる。血液、水の流れ、排水などその流れをよくするには、筋を正しく伸ばす。まっすぐにすることで流れがよくなる。背筋を曲げると、体の動き、考える能率が減退する。曲がり道には人の考えも曲がり道となる。曲がると考えは鈍くなる。

大阪に御堂筋という道があるが、道の中でもまっすぐに通っている道を筋と呼ぶ。体の中にもいくつも筋が走っている。小さな筋が直線に走っており関節が曲がるようにできている。人間の体に無数の直線の筋が通っている。人間の筋は一本でなく無数に走っている。多くの筋が一つの筋を作ることがある。多くの筋は縦、横とあるが、筋と筋が交わることはない。しかし、体が無数にある筋を一つにまとめている

道には考えを正す力があるから、道を見つけ出すことは大事なことだ。道があり、それに沿って歩くことの大切さがある。考えた結果、道を作り出すのではなく、先に道があった。後から人が道を見つける。

道について考え込むと時間を要する。考える人が幸せとは言えない。考えることは人間の特質であるが、考え過ぎることはよくない。考えることで道を探しているのだが、道のない方向に導かれることもある。

************************************

道のある方向に導かれると、そこは未知の世界。
色々な可能性を知らされる、魅力的な世界。

未知の世界には期待と不安がある。
期待と不安は背中合わせ。
そして人は未知の世界に向かって向上する。

計算と誤算

多くの人は心の中で計算して予想を立てる。近いことから遠い将来のことまで、なんとなく予想するが、誤算が起こる場合は、近い事柄が多い。

誤算という言葉から、人はマイナスのイメージを持つ。結果が喜ばしいことなら誤算と言わず、ラッキーと嬉しくなる。誤算は人生につきものである。計算通りにいかないのが人生である。誤差はどのくらいだろうか。平均的誤算は2、3割だろう。時には10割誤算もあり、周りの人を驚かせる。

人は数字に支配されて生活している。計算しない人生は考えられない。計算して計画を立てる。計算上手であることが、生活の達人とも言える。時間の計算とお金の計算、年齢の計算が主なものだ。

これらの計算には個性が出てくる。計算上手な人が出す答えが、無限大になった、というのは可能だろうか。そんな計算方法はないと反論が来そうだ。

無限大というのは数字ではない。計算しても数字の答えが出ない数式があるのだろうか。個人の経済力や命の長さは限られているので、答えは有限である。しかし、自分以外の他の人の経済力や命につなげていけば、生きている人がいる限り、それは無限大の存在になるだろう。計算する人が存続する限り、その計算式は存在する。

個人の数式は練習問題である。百パーセントの正解は出てこない。それでも人は計算して人生を送っている。正確な答えの出ない練習問題に取り組んでいる。一生練習問題に取り組むなら、誤算を嬉しい誤算に変える方法も知っておくとよい。

嬉しい誤算は答えが実際より多い、おまけが付いているのが嬉しい誤算だ。予定外の収入、おまけの人生。責任がないことは楽しいことだ。

例えば単純な考え方を取り入れると、2+2=4の代わりに1+1=2と計算しておく。すると実際は2+2だったので結果は4が得られる。2の誤差を生じるのが誤算である。実際はおまけの2がついてくる。計算に入れなかった1+1は自分のところ以外の何処かに預けておくことで、嬉しい誤算が生じてくるのだ。

どこに預けるか?安全な場所は個人で考えなければならない。そうでないと、なくなってしまうからだ。

色の話は無限に続く

色は目に見える色と、目に見えない色と、イロがある。

この世の見えるものすべてを色(しき)と呼ぶのは仏教。色即是空で有名だ。

形と色と雰囲気で読み取る見えない色もある。顔色を読んだり、怒りの色を発したり、人間技だ。仁王像はよく顔色が現れている。

日本伝統の色彩事典を見ると、昔の日本人の感覚がいかに研ぎ澄まされていたかわかる。百何十種類の色の妙があり、自然界から美しい名前が付けられている。(この事典を眺めるだけで想像力がかき立てられ、感動させられる。)
色は脳で処理され、視覚で認識される感覚の一部だ。人はたくさんの同系色をグループ化して認識することもできる。

見える色と目に見えない色に対してイロは、性質も正反対。
ただのイロ。
イロはそこに存在せよ、居ろ、そこに永遠に居続ける。
このイロは変化することがない。

文章を書くこと、それを駆り立てるもの

昔の人は手紙に親しんでいた。本に親しんでいたように手紙に親しんでいた。電話がなかった頃はなおさらである。必要手段であった。今は手紙は必要手段ではなく、楽しみの領域であろう。送る側も受け取る側も、日常性から離れて、文章を考え、鑑賞する。

文章を書くのが苦手な人は多い。短いメールをよく利用する人や話すのが得意な人でも、文章となるとなかなか浮かんでこない。頭の中に浮かんだ言葉を文章にすれば良いのだが、構えてしまうのである。それは文字を書かなくてはならないからだ。思ったことをすぐ口にするのではなく、あいだに書くという作業が入り、ワンクッション置く。

一気に表現するのではなく、少し間ができる。少しの間で思ったことが反芻され、練られる。そして上手く書かれた場合と、本人が気に入らない場合とが出てくる。それで筆が進まなくなるのである。

筆が進むとは、どういうことかというと自分の考えがどんどん出て筆でやっと書けるくらい、場合によっては追いつかないくらいに早く書けること。筆が進むときは、考えと書く作業の間に間がないくらいだ。間に合わないくらいになる。口述も考えなければならない時も出てくる。文章を鑑賞している暇はない。

よくものに憑かれたように書く作家がいるが、物書きとはものに憑かれた人とも言える。ものとは何か? 見えないものである。ブツとは異なるものである。ものの正体は何か?それは駆り立てるものである。自分の中に存在する駆り立てるもの、しかも外部のものである。ものが落ちたように書けなくなる時もくる。

駆り立てるものは生きていて作家を操る。作品が完成すると、そのものは満足していなくなる。満足しないと、また新たなる作品に挑むのである。満足するまで挑み続ける。こんなものがあるのである。それは一見作家の内なる欲求のように見えるが、これは人類共通の欲求のことがよくある。作家が代表して書く役割を果たしているのだ。作家もこの時は、書かされるものになっている。駆り立てるものとは、抽象的な言い方だが、駆り立てるものたちが存在しているのである。

手のウラを見せて力を抜く

力を一ヶ所に入れ過ぎると疲れる。寿命が短くなる。

プロのスポーツ選手は食いしばり、頑張るので短期間プロである。
しかし、トレーニング方法を変えて、力を入れず、分散させるトレーニングをすれば、長期間現役でいられる。ストレスを感ぜずに長く生きるには、細胞内に老化要素、有害な物質を生じさせないことである。

そのためには力を集中させず、散らす。

例えば、朝起きる前、体を広げて力を抜いて、足裏を引き寄せる。
立つ時、手の平を外側に向けて、体を広げ緊張感を取り除く。
初対面の人と座って話す時、膝に置く手を下向きにせず、ウラを上にして胸を広げる。仏像の手の平のカタチで。

本来、ウラになっているところ、それを返して解放させる。

祈りと神様の望遠鏡

日頃、宇宙に大きな祈りと小さな祈りが動いている。大きな祈りは絶えず祈っている。砕け散らない大波。神と人間のあいだを行きつ戻りつしている。

小さな祈りは、白いさざ波を立て崩れる波。外から見ても美しい。形も色もわかり、音もする波らしい波だ。さざ波は音をたて、神は返事をする。音がして波が消える。

さざ波のような小さな祈りは勢いも小さい。神は望遠鏡を使って、小さな祈りを引き取られるが、届かないこともある。小さな祈りを神様の望遠鏡に入れることが必要だ。

そのためには光っていること、目立っていることが大事だ。その光り方は霊的に光っているか、目立っているか。常に燃えている状態でいれば、光っていることができる。火を絶やさない松明(たいまつ)の燃え方だ。
神様の望遠鏡に向かって燃え続けている。

常に燃え続けるやり方とは? 火がなくなりそうになれば、火(神)を求めることだ。車がガス欠になれば、ガソリンスタンドへ行く。パンがなくなれば、パン屋へ行く。神が必要な人は神を求め、神を認める。

火(神)を認めることは、非を認めることにも通じるものがある。

Translate »