老舗洋菓子店経営の山本博士氏(やまもとひろし)の東西文化が融合した明治以来の横浜ゆかりの美術品を観にぶらり散歩に出かけた。
10月11日から1月12日の会期だ。10月29日は数人の来館者で写真撮影も自由だった。

横浜彫刻家具、明治時代

1890年


真葛焼 1881年頃
現存が確認できる七宝焼技法を使用した唯一の香山作品。
超越精密技巧と色彩に心揺さぶられた。
欧米の需要は高浮き彫りから、釉下彩陶磁器へと移る。

1901〜1904年頃

後に続く二代香山の作品の気品、優雅さに魅せられた。



これまで体験したこと、今の生活を、ちさと姿の見えないタモツさんが語った言葉をつづります。
老舗洋菓子店経営の山本博士氏(やまもとひろし)の東西文化が融合した明治以来の横浜ゆかりの美術品を観にぶらり散歩に出かけた。
10月11日から1月12日の会期だ。10月29日は数人の来館者で写真撮影も自由だった。




現存が確認できる七宝焼技法を使用した唯一の香山作品。
超越精密技巧と色彩に心揺さぶられた。
欧米の需要は高浮き彫りから、釉下彩陶磁器へと移る。


後に続く二代香山の作品の気品、優雅さに魅せられた。


最終日の朝はゆっくりホテルの庭を散策した。
かわいいエゾリスに出会って至近距離で撮影できた。
リスらしいフォルム、正面からの耳が特別に見える。


枯れ木も混じる庭の低木、ふと見ると、上半身の人間が「いいね👍」サインを出しているようなスガタ。

9時30分をホテルをあとにし、六花亭の自社ビルに寄る。
ひとめぐり号は帯広駅を10時47分に出発、占冠駅、安平町を経て、札幌駅に14時34分に無事到着した。


3日目の朝は8時20分、ホテルを後にしてバスで知床五湖に向かった。五湖のうち、知床一湖をガイドの案内で1時間ほど散策した。


遊歩道は地面から150センチ上に木組みされている。さらに電気ワイヤーが張られており、クマ対策も万全だった。知床半島は世界有数の高密度なヒグマの生息地だ。
この日は11時35分に知床斜里駅を発車。約6時間の列車の旅が続いた。

13時、摩周の豚丼弁当を頂いた。秘伝のタレと厚切りの豚肉は忘れられない味だった。

4時35分頃、池田町近く、車窓から地平線に沈む夕陽を眺めつつ、6時頃、帯広駅に到着、十勝川温泉のある宿泊地、ホテル大平原に向かった。

8時40分に上川駅を後にして、2日目の停車駅は、遠軽駅、網走駅。そして最終駅の知床斜里駅には12時38分に着いた。

遠軽駅でスイッチバック、すなわち座席の向きを変え、車両の進行方向が反対になった。北海道唯一のスイッチバック駅だ。
ビート(てん菜)は寒冷地で育ち砂糖の原料になる。全国では北海道だけで栽培している。あとは鹿児島でサトウキビが砂糖の原料 ー ほうれん草に似た葉っぱが広がっていた。

車内で網走名物の「カニメシ」の駅弁を頂いたあと、バスに乗り換えて斜里町を巡る。
午後の観光船オーロラ号は、天候不良で欠航となった。
オホーツク海は白いさざ波が小さく横に走っていた。大荒れの海ではなかったが、あきらめも肝心。

斜里町のオシンコシンの滝は落差約30メートル。
途中から流れが二つに分かれ、「双美の滝」とも呼ばれ日本の滝100選の一つに数えられている。
つぎに国道244号と334号の一部の全長28メートルの直線道路に上り、はるか彼方まで走る「天に続く道」を眺めた。
最後に日の入りには少し早い時刻、海に沈む夕陽を眺めるスポットに立ち寄る。

予定より早めに宿泊予定のホテル知床にに到着。夕飯前に余裕をもって露天風呂に浸かりながら夕景を楽しんだ。
10月13日から3泊4日で友人と北海道の秋を感じる旅に出た。
全国から166名が参加の団体ツアーだ。JR北海道とJAL、阪急旅行社、3社の共同企画で、2025年は今回で5回目だそうだ。
JALから数名のキャビンアテンダントが列車に乗車し、華やかな雰囲気だ。


明るいパープルカラーの列車が入構してきた。
定刻通り13時3分に札幌駅を発車。
初日の停車駅は旭川、愛別そして最終駅の上川には15時35分に到着。


各ホームで地元のゆるキャラの歓迎と宣伝があった。
愛別駅では、美味しいキノコの味噌汁をいただいた。


バスに乗り換えて途中、名瀑銀河流星の滝に立ち寄り、17:30頃、層雲峡温泉のホテルに着いた。
9月25日念願の軽井沢安東美術館の訪問が実現した。
東京駅から新幹線で1時間、駅から徒歩10分と好立地にあるが、ー日帰りではあわただしい。駅近の宿に一泊して、秋の長野の散策も予定に入れた。観光客は非常に少なかったのが意外だった。

公園右手の散歩道を歩いていると、程なく右側に安東美術館が見えてきた。



戦後に描かれたこの作品、婦人の顔、左手の額装の中の少女、床の猫、いずれも全体像が描かれていない。婦人はベッドのほう、または壁の十字架を見ている。戦後、傷心で日本を離れて渡仏した心情を考えさせる。

戦後少女の絵を多く描いた藤田が珍しく少年を描いている。子供たちの表情は少ないが、生活の一場面で楽しそうだ。

金色の壁をバックの聖母子の作品と椅子があるコーナーは、小さな教会のようだ。

最後はリビングルーム用ソファが置かれてある、家庭的な部屋だ。
出口出たところにフリードリンクやビデオデッキのあるリラックスコーナー、個別のテーブルが備えてあり、優しい心、豊かさが感じられる憩いの場所だった。
9月18日木曜日、大阪万博会場に向かった。
横浜から新大阪まで新幹線を利用し、現地に8時間滞在の日帰りツアーだ。体力的に高齢者にとって大きなチャレンジです。
パビリオンの予約はアクセス数が多すぎて一つも取れない。とりあえず大屋根リングを一周する。あとの行動はノープラン、感覚で会場を歩いた。


初めに大屋根リングの上から会場を一周した。地上は蒸し暑いが、屋根の上はやや強風で汗を乾かしてくれる。
小さな花壇の手入れもよく、緑と海とパビリオンの建築物を楽しめた。道のりは2キロ、1時間で回った。


この日の来場者数は過去最高の23万人。
どこも人が多すぎて万博狂想曲、来場者は忍耐強い。車椅子利用の高齢者や子供も思いのほか多かった。私と同じく猛暑の中、会場の雰囲気を感じに来たのだろう。
日本の55年振りの万博。
多くの人が参加協力して予想以上に盛り上げたと思う。
9月7日日曜日午後6時、石破さんは無念の思いで辞職を突然国民に伝えた。
理由として、8日月曜日の自民党員の全国選挙で、名前明記をすることなどで考えられる内部の分裂を避けたい、と言う。

その日の夜中、2時過ぎに目が覚め、皆既月食が観察できることを思い出した。それから30分くらいシャッターを切りつつ、望遠鏡を覗いた。地球の影が少しづつ月面にかかるのが良く見えた。

石破さんには自民党が今も分裂している党内がさらに分裂しても最後まで頑張ってほしかった。政治空白は石破さんは作っていない、対外国・対米の一年間の石破さんは外交努力を続けた。今回の動きは日本の政局の不安定さを再び印象づけ、間接的な経済効果にも好ましくない影響大に違いない。
足元しか見ない今の自民党内部の抵抗勢力。応援する国民の希望が急速にしぼんだ。
9月4日木曜日、やっと酷暑が和らぎ、曇り空になった。竹橋の近代美術館の企画展にて藤田嗣治の戦争中に描いた大作5点を鑑賞する。想像はしていたが、あまりの画力に魂が揺さぶられた。

日本軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件。4メートルを超えるキャンパスに部下の鎮魂を願う予備役中将の依頼に藤田は答えた。名作として知られている。

シンガポール、ブキ・テマ高原の占領を描いた。陥落直前の市街地から煙が立ち上がる。画面左上から陽光が市街地を明るく照らしている。

オランダ人邸宅に日本兵が踏み込む瞬間を描いた。
テーブルの下に猫が隠れている。


サイパン島で多くの住民はマッピ岬へ追い詰められ、バンザイと叫びながら、海に身を投げた。今はバンザイクリフと呼ばれる。多くの犠牲者は沖縄県出身の移民。藤田はこの集団自決をヨーロッパの宗教画のごとく描いた。
藤田嗣治の戦争画の大作は東京国立近代美術館に無期限貸与されている。企画展は10月26日で終了するが、その後も常設展で見ることができる。