時間の進み方

多くのスポーツ競技大会では時間を競う。どこでも時間が短い記録の方が良い記録となる。遅い時間は誰でも到達できるからである。しかし非常に遅い時間の記録となるとまた難しいものである。百メートルを進むのに5時間かかって直線に進むとなると、カタツムリになったつもりで進まないと達成できない。

一般に早ければ早いほど良いのが、人間社会の風潮である。遅ければ遅いほど良いのが、年齢のとり具合、お金の減り具合、悪い知らせなどである。締め切りや約束がまだ終わっていない時など時間が止まってほしいと思う。

遅い記録の部類で一番のものは、おそらく歴史の進み具合である。歴史の進み方は非常に遅いので、時々繰り返してしまう。行ったり来たりと進み、ある部分繰り返しが起こる。行ったり来たりとは、煮え切らない動きであるが、人間特有の動きである。他の動物では見られない動きだ。思いっきりが悪く、躊躇しながら進む。それでも、後ずさりしつつも、全体では前に進んでいるのが人間の進み方の特徴だ。

陸上競技で走るように、最短距離を選んで最高速度で進むのは、スポーツという特殊な状況下だ。普段の生活では、行ったり来たりの動きで前に進んでいる。これは、考えながら進んでいるからだ。スポーツ選手は走っている時は無我夢中であると思う。雑念を抱きながら走ると、良い記録は出せないだろう。

人間は考え始めると、速度が遅くなるものである。考えない人ほど、早く歳をとり、ある意味では健全な生活、人生を全うして逝く。考えながらの人の人生は速度が遅いので、多くの人は歳を重ねるのを遅く感じる。もちろん、これは内面的な歳の取り方のことで、見た目に歳より若い、老けているという意味ではない。考えながら人生を送った人は、体が弱くなって他界する時が来ても、中身は歳をとった感じがしないので、とても不思議な気がする。

奄美大島の旅、島外観(3)

奄美大島は奄美諸島に属する鹿児島県だ。加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島までが、鹿児島県内にあり、少し南下したところに沖縄県沖縄本土が位置する。島の大きさは佐渡島に次いで第2位。

琵琶湖に形、大きさが似ているが、海岸線は複雑なので、奄美大島は461kmと琵琶湖241kmの2倍弱と長い。面積は約712㎢、琵琶湖は681㎢だ。

笠利崎の竜宮伝説から
幸運を呼ぶウミガメ
笠利崎

 

 

 

 

 

 

最北端の笠利崎から大海が一望できるが、左手は東シナ海、右手は太平洋が広がる。大島の北半分は観光客を迎える空港や大きな庭園の中の大島紬村や田中一村美術館、最大都市の名瀬がある。

瀬戸内町、ホノホシ海岸、
波に洗われた丸い小石の浜
マングローブ原生林

 

 

大島の南半分は静かな森林地域や71km2のマングローブ原生林が広がっている。観光バスは北部中心に周るそうだが、今回のツアーは島全体をドライブした。離島の加計呂麻島などの人口1200人の生活も大自然の表情を見せてくれ、人気の島らしい。

ベイマツ
大和村、マテリアの滝

 

 

大島紬村、奄美大島の旅(2)

空港からバスで20分、龍郷町に1万5千坪の敷地内に亜熱帯植物庭園が広がっている。地面は波状に小石が手入れがされており、美しい。大きく繁った南国の木々は間隔を十分にとって成長している。巨大な敷地内に贅沢に育てられている。赤白のハイビスカスやブーゲンビリア、ポインセチアも大きく延びている。

日陰ヘゴとポインセチア
広々とした土地で育つ
ハイビスカス

この庭園内で大島紬の製造過程を見学できる。池では泥染めをしている職人さんもいた。織物機で実演してくれたのは始めて2年半になるという明るい女性。糸を図柄に合わせて染めてから織るので素人には難易度が計り知れなく感じる。工場建物の屋根は、この地名から取った龍郷柄の模様になっている。赤色の部分が映える可愛い屋根だ。

きれいに整った設計の中で、次回来園した時はのびのび育つ樹木たちと会話しながら、時間を気にせずにゆっくり散策したいと思った。

大島紬製造作業所
屋根が龍郷柄
高倉式の穀物貯蔵庫

田中一村と小鳥たち、奄美大島の旅 (1)

奄美空港から車で5分。奄美パークの中に田中一村記念美術館がある。
高倉式住居を3棟つなげており、モダンであり、懐かしい心休まるデザインだ。
常設展は80数点の展示があり、年4回の入れ替えが行われる。

今回の展示は初期の南画、水墨画、絹本着色絵として描かれている奄美の植物と小鳥が印象に残った。

明治41年に栃木県で生まれ、生活圏は東京時代、千葉時代、そして移住先の奄美では昭和33年から19年間の孤高の生活を送った。昭和55年9月11日、古稀を目前にして自宅で倒れた。恩師の川村喜美さん、不昧さんに送られた最後の手紙には、最後まで絵を描き続けられたことへの感謝のことばが綴られていた。

今回の展示物で印象的な題材は小鳥たち。いつくしんで描かれているのが伝わる。
絵の中に、ルリカケス、アカヒゲ (この2種は天然記念物)、コウライウグイス、トラツグミ、イソヒヨドリ、琉球アカショウビンを見つけた。

天然記念物のルリカケス

天然記念物のアカヒゲ

トラツグミ

一村は自宅でトラツグミやコウライウグイスを自分で育てた。小鳥が具合悪い時は渾身の看病をした。
コウライウグイスはこの鳥が生きているあいだは描かなかったそうだ。

食事の役割

毎日の食事。多くの人は食事時間を楽しみにしているのだろうか。それとも息をするように当たり前のことと思ってその時間を消化しているのだろうか。

私の場合、食事は一人で取るか、二人でいただくか、3人でいただくか、それ以上の人たちといただくかで食事に対する期待度が異なってくる。

一人の食事は食卓を囲んで、と言う雰囲気はもちろんなく、自動的に手が動いている。二人の時は会話のほうに気が回り、食事よりも会話が第一になるようだ。これが三人になると、食べ物を見つめ、鑑賞する時もあり、話題を考える時もあり、食事時間を心地よく満喫できるバランスのいい人数だ。四人以上になると食事というよりも食事会といった緊張感が出てくる。これはかた苦しいのではなく、食事以上のものを与え、また受けるような気がする。その場で同じものをいただきながら、同じ時を過ごす。同じ時を過ごしながら、同じ空気を吸う。

「同じ釜の飯を食うと急に親しくなれる。」同感である。
食事を共にすることは比較的簡単だ。私たちは自分のこと、身の回りのことは自分でしなければならない。他人と共にすることはほとんどないのだが、食事だけは毎日、人間がすべきことの中で、簡単に共に行うことができる。毎日のことなので空気を吸うように食事を取ることも当たり前と思う。

しかし食事は人間に日々の糧を与えてくれるばかりでなく、広い意味では文明を発展させてくれた。植物のように水だけで生きるカラダであったら、または多くの動物のように栄養バランスを考えることなく、一つのものだけを食べていればよかったとしたら。今の文明はなかっただろう。

人はパンのみでなく、おかずも必要だった。そのおかずのおかげで私たちは豊かな文明を楽しんでいる。

年齢制度がなくなれば

時間は計るものではなく、流れるものであった。
時間を計った結果、人間は自分の年齢にしばられることになったが、時間を計らずに流れるままにしてみるとどうなるだろう。

人間が一年毎の区切りを意識することなく、そして年齢制度が全くなく、その結果、自分の年齢の意識を持たずに一生を過ごしたとしたら、それはどんな一生となるだろう。

小学校に入学するのも、学校を卒業するのも、結婚をする時期も、すべて自分の気持ちで決める人生があるとしたら。そして、死でさえ、生きることに十分満足したと本人が納得した後、その時期を選択できる人生であったら人間はどんな行動パタンになるだろう。

それはきっと流れるような人生だろう。時間は存在せず、時の流れのままに生活すれば、その生活は流れるようだろう。節目がなく、自分だけの責任で教育を終え、仕事をし、結婚をして家庭を築き、老後を迎える。他人の成長度を見るのは、その人の顔と態度と言葉だけ。年齢で人を計ることが絶対にない世界。

今のこの世界は知らない人のことでも、年齢さえわかれば、その人が人生のどの部分を歩いているか知ることができる。当然、人間も自分の年齢に合わせて行動しようとする。人間は時間によって作られているとも言える。

そのような大切な役割をしている「時間」から、解放されたら次々とやりたいことの出てくる人々の中には、時の立つのも忘れて、気がつけば周りの人は知らない人ばかり。浦島太郎も増えるかもしれない。

この世では年齢の壁があるが、時間にしばられて生活しているのが人間世界なら、時間がゆったり流れている世界も存在しているのだろう。

 

宇宙の意志、神の意志

宇宙の大きな意志は、「病のない宇宙」へ戻そうとする。
宇宙の医師の働きだ。
宇宙には健康を取り戻す医師がある。

人間の体の中にある自然治癒力のよう、
自然にしていれば段々良くなり
回復していく。

一方、神の意志は自然にしていては働かない。
人間からの働きかけによって、神の働きが出てくる。

神の意志は自然にしていては出会えない。
宇宙の意志と神の意志と二つの意志がある。

新しい年を迎える

新しい年を迎える前に、捨てる執着を考える。
魂の脱皮をし続けることで成長を続ける。
身を軽くすることで、魂の軽やかさを保つ。

神の流れは悠久の流れ。
細く流れるのは、人間社会の急進の流れ。
神の持つ流れは大き過ぎるため、目に入りにくい。
心を騒がせないで眺めていらっしゃい、
かつて神様は言われた。

神は常に静かな心を持っていたいと願う。
祀りごとを静かに行いたい。
神の世界の祀りは騒がしくない。

お祀りに供えられるお神酒。
人間が米から作り、お神酒を神にお供えする。
神はそのお酒の氣を人間に振舞われ、お返しをする。
それを眺めておられる。

年末を迎えて、お開きの言葉(2)

その家は家庭とは違って神様の家である。その家の数は魂の数だけではない。もともと家は複数が住むもの。神様の家も複数の魂が入っている。

家の形は共通したものがある。人間の家のシンボルは、円錐体をなしている。神様の家は地上とは違って逆さまの円錐体をしている。

安定の難しい逆円錐体であるが、これが神様にとっては安定の良い円錐体になっている。安定が悪いようで実は安定している。底から上に広がっているので「神の氣」を逃さない。下方を頼り、だんだん上方に頼る。下の方に「神の氣」があり、ここが中心でその家が回っていく。コマのような動きで中心点を保って家が回転するようになる。

そこは空間の中で絶えず神の氣を受けて回転しており、魂が成長して行く。その魂は複数であり、その中で成長が高まって行く。中にいる魂は家族ではなく、親族のようだ。家族のように絆は深くないが、親族のような距離感を保つつながりだ。

人間の執着は取って良いものと取らないで良いものがある。取るべき執着は仏教でいう百八の煩悩。

取らないで良いものは三つある。生への執着、性への執着、そして成への執着。属性となっているものは取らないでよい。

年末、お開きの言葉 (1)

今年も余すところ5日間だ。過去を振り返ると苦しかった期間も楽しかった期間も一瞬のことのようだ。

人間は誰でも生きることに執着している。生きるとは体が動いていることを言う。人間はこの生きることに対する執着がある。病気で寝ている人は静養しており、大胆に体を動かすことができないでつらいと思う。動いていることが生きている証拠である。

生存への執着のほか、人間は性に対する執着を持っている。そして成長への執着もある。

成長したいと思う執着は尊い執着だ。死んだらおしまいと言う人でも老後の楽しみを求めるのは成長への執着の表れだ。何かを学ぶこと、学びたいと思うのは、人間の成長への執着。カラダがある期間の個人的な執着だ。

一方、カラダのない、魂が持つ生、性、成への執着とは?
性別を持たない、永遠の魂には生、性への執着はない。
あるのは成長の執着だけだ
この成長は個の成長だけにとどまらない。プラス、成長する家がついてくる。

成長する家とは、家があり、その中で魂も成長して同時に家も成長する状態をいう。家と共に己の成長があるが、家の成長に続いて、それから己の成長がある

 

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