手の働き (2)

手には裏と表がある。足にも裏と表があるが、手ほどはっきりしていない。普通、手のひらが裏になるが、実質的に考えれば、手のひらは表である。手相があるのは手のひらで、そこにメッセージがある方が、手紙の文面と同じく、表である。

手のひらが平らになるのも面白い。平らになるので音が出せる。敬礼もできる。手が曲線しか作れず、それで敬礼しなければならないとしたら、その場の空気感も違ってくる。直立不動の姿勢の中でも、手の働きは重要だ。手がまっすぐ伸びていれば、直立不動の気が失敗なく、見ている人の側に伝わってくる。敬礼、直立不動などは、軍隊、自衛隊の人でもなければ、普通の大人は縁のないポーズであるが、見る側として共通体験をできる。まっすぐの気が伝われば、両者が体験者になり得る。

かくも魅力的な働きをたくさん持っている手である。私にも見えない手があるが、これを奥の手と呼ぶ。自分だけが知っている手である。

手の働き (1)

手。人間の手をしげしげと見つめると、まことによく出来ている作品だ、と思う。五本の指、それぞれの位置、長さのバランス、全体の形、等々。私は手に現れる人間の内面の感情を見るのが好きだ。何故ならば、醜い手の表情がないからだ。

顔の表情は時として、抱きしめたいくらい、素晴らしい表情を作る一方、正視に耐えられないくらい、意地の悪い表情も作り出す。その素材は、目、口、眉が主なものである。手と同じく五つの部位で作り出す。

手の表す表情で一番多いものが、恥ずかしさ、落ち着かなさ、緊張感などであろう。その次は、断固たる決意、例えば、こぶしを握りしめてやるぞ、という意気込み、絶対に負けないぞ、と頑張っている最中の表情であろうか。手を打って嬉しさを表現する人もいる。手をたたいて喜ぶ。反対に手を握って悲しみ、辛さ、悔しさに耐えることもあるだろう。手は道具を操るばかりでなく、情緒面では、逆に手が道具になって見えない感情を表すことができる。

すべてのものは声を持っている

すべてのものは声を持っている。
聞こえる声もあれば、聞こえない声もある。
植物も声を持っている。
動物、鳥、魚、昆虫、石、机、椅子も声を持っている。

声はそのものを超えた存在だ。
良い声もあれば、悪い声もある。
悪い声は不調和音だ。調和する声は良い声だ。

ふだん黙っていても、非常時には声が出る。
病で話せない人も、まさかの時、人の耳には聞こえなくても、
彼の声なき声が天に届く。

声は偉大だ。
声を出すことで、天に通じるから。
無言の祈りも天に届けることはできるが、
とっさの声はそれに勝る。
非常ベルとなり、何はさておいても天に届く。

買い物、お金、本物を持つ (2)

お金持ちが物持ちであるとは限らない。最近はお金持ち貧乏が多くいないだろうか。お金はあっても本当に必要なものは持っていない人。本当に必要なものは、人によって違うだろうが、人間に共通して必要なものを持っていない金持ちも多い。

それは人間として必要なもの、本物を持つことである。他の動物は本物を所有することにこだわらない。人間だけが本物を持てる動物なので、それを持つべきだ。本物とは何か? 本当のものとは、決してすたれないもの、いつまでもあり続けるものだ。よく言われるように本物だけが最終的に残る。

人は死ぬ時は何も持っていけないが、本物だけは一緒に持って行ける。偽物は幻影のようなものだが、本物は実体があるのでいつまでも消えることがなく、それを所有した人の付属物になることができる。

本物を持つことは趣味ごとではなく、必要なことである。長い人生の中で、一つくらいは本物を持たなくては、その人の人生自体、幻影のように何一つ残らないものになってしまう。

買い物、お金、本物を持つ (1)

買い物とは言わずと知れた、お金を払って品物をもらう行為である。お金を消費する行為だ。お金だけを消費するわけにはいかない。代わりに品物がついてくる。お金だけ消費したい人は、どこかに寄付するか、贈り物をするしかない。

お金を消費することで、精神が安定することがある。お金を貯めることでも精神が安定する。反面、お金を消費して不安定になることもある。お金を貯めても、まだ蓄えとして足りないのではないかと、不安になることもある。お金の消費は一種の精神への刺激となる。良くも悪くも働く。

お金は人間が作り出した便利でや厄介なものである。精神によく働いた場合、お金は喜び、またここに来ようと思う。悪く働いてしまった場合、お金は恐れ入って、もう来たくないと思う。お金はとても正直者だ。

お金は嘘をつかない、頼れるのはお金だけだと、お金を賞賛している人は多い。好かれているうちは、お金も気持ちよく働き、留まるが、自由がなくなるともっと動きたいと思う。お金は生き物だから、長い間留まっていたくない。長い間留まっていると、お金はお金でなくなり、ただの紙切れになってしまうことを知っているのだろう。

お金は最近はその姿を見せずに数字の記録になりつつある。お金は意志を持って走り出し、飛び回っている。他のお金たちと連携して、人間に協力しようとか、最近自分たちを粗末に扱っているので、反省の機会を与えようとか、言い合っている。

はじめに言葉があった

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」

これらの言葉は新約聖書ヨハネ伝冒頭の言葉である。この偉大な言葉は誰によって語られたのだろう。聖霊によってのみ語られた言葉だ。聖霊によって語らしめられた言葉は、永遠に残る。人間を通して聖霊が言わしめるのである。

多くの格言、名言も本人が気づかずして言わされている。積み重なる経験の結果の言葉もあるだろう。本人が体得した、目に見えないものを言葉によって表し、記録し、残すことができる。人の一つ一つの経験は忘れ去られるものであり、当人さえも覚えていられないが、言葉が経験から得たものを永遠に残す。

言葉は命の核となって生き延びている。

様々な言語が世界中にある。これはなぜだろう。一つの理由は民族間に距離を置くためである。遠くから眺め、考えるためである。適度の距離は、距離を縮めるために役に立つことがある。距離がないと、対峙しているものの全体が見えにくい。少し離れると、輪郭が見えて相手を理解しやすい。

言語の違いは相手の輪郭を掴むためだ。母国語のように中身を全て理解することは難しいが、輪郭だけなら簡単だ。外国語を習う人は輪郭を知るために学ぶことが大切だ。輪郭を知った上で、理解を深める。語学の取り組みも輪郭というカタチから入っていくと長く続けられる。

精神統一について (2)

例えばオリンピックはもともと個人の精神と深く関わっている競技大会であることはその起源を思い出してみれば異論はないと思う。「勝負を争うのではなく、参加することに意義がある。」とは有名なクーベルタン男爵の言葉だ。この是非はともかく、負けた人でも精神を十分に集中し統一できた人は、悔し涙に暮れることはないだろう。精一杯やりきったという満足感を持てるはずだ。

精神統一は、個人の力量であると同時に、外的要因に左右されることもある。それをうち消そうとしても、邪魔しにやってくる。かえって内部の邪魔より、外部からの邪魔の方が多いかもしれない。

世の中では精神を統一しようとした結果、精神を分裂させることもあり得る。
分裂した精神は、またふつうの状態に戻すことは可能だ。現在の医学では即効性のある療法は見つかっていないようだが、外から精神が自分の中の精神をコントロールしてくれる存在があれば可能だ。精神は精神を持って正す。

大精神に届けば、人の可能性が大きく広がる。神技も可能なくらい広がる。精神が自由に行動するのは知られていると思う。自分の中だけの自由ではなく、自分から外に出て行動できる自由だ。コントロールされるのを嫌う人間はそのために現在不自由な面もあるが、将来は逆に精神を大精神にコントロールされることにより、自由になることができる。そのための条件は、先ほどの「精神は精神を持って正す」という点だ。

精神統一について(1)

よく精神を統一するというが、これは精神を集中するとは異なり、後者の方がよく使われる。精神とは複数のものだろうか、それとも単数なのだろうか。精神を見た人がいないので、明確な答えはないが、統一するとは複数として扱っていることになる。集中も、人口の集中とか、問題が集中したとか、複数の数が散らばっているものが、人所に集まることを意味する。

それでは、精神とはなんのことだろうか。個人の精神もあり、団体における精神もあり、芸術の世界での精神もある。精神統一といえば、個人の内面的な働きを意味するが、精神統一をした結果、単なる一個人の体験以上の成果が得られることもある。神技に近いことが達成できることもある。

競技会では精神を集中するのがうまい人、精神統一のできる人が高得点を得られやすい。得点はどの競技にも共通して精神のコントロールの上手な人順に並んでいると言ってもいいだろう。その日の体調、環境も多少影響するが、いちばん影響するのは精神のあり方だ。体が不調でも精神のコントロールが上手な人はマイナス要因を克服できる。

時間の進み方

多くのスポーツ競技大会では時間を競う。どこでも時間が短い記録の方が良い記録となる。遅い時間は誰でも到達できるからである。しかし非常に遅い時間の記録となるとまた難しいものである。百メートルを進むのに5時間かかって直線に進むとなると、カタツムリになったつもりで進まないと達成できない。

一般に早ければ早いほど良いのが、人間社会の風潮である。遅ければ遅いほど良いのが、年齢のとり具合、お金の減り具合、悪い知らせなどである。締め切りや約束がまだ終わっていない時など時間が止まってほしいと思う。

遅い記録の部類で一番のものは、おそらく歴史の進み具合である。歴史の進み方は非常に遅いので、時々繰り返してしまう。行ったり来たりと進み、ある部分繰り返しが起こる。行ったり来たりとは、煮え切らない動きであるが、人間特有の動きである。他の動物では見られない動きだ。思いっきりが悪く、躊躇しながら進む。それでも、後ずさりしつつも、全体では前に進んでいるのが人間の進み方の特徴だ。

陸上競技で走るように、最短距離を選んで最高速度で進むのは、スポーツという特殊な状況下だ。普段の生活では、行ったり来たりの動きで前に進んでいる。これは、考えながら進んでいるからだ。スポーツ選手は走っている時は無我夢中であると思う。雑念を抱きながら走ると、良い記録は出せないだろう。

人間は考え始めると、速度が遅くなるものである。考えない人ほど、早く歳をとり、ある意味では健全な生活、人生を全うして逝く。考えながらの人の人生は速度が遅いので、多くの人は歳を重ねるのを遅く感じる。もちろん、これは内面的な歳の取り方のことで、見た目に歳より若い、老けているという意味ではない。考えながら人生を送った人は、体が弱くなって他界する時が来ても、中身は歳をとった感じがしないので、とても不思議な気がする。

奄美大島の旅、島外観(3)

奄美大島は奄美諸島に属する鹿児島県だ。加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島までが、鹿児島県内にあり、少し南下したところに沖縄県沖縄本土が位置する。島の大きさは佐渡島に次いで第2位。

琵琶湖に形、大きさが似ているが、海岸線は複雑なので、奄美大島は461kmと琵琶湖241kmの2倍弱と長い。面積は約712㎢、琵琶湖は681㎢だ。

笠利崎の竜宮伝説から
幸運を呼ぶウミガメ
笠利崎

 

 

 

 

 

 

最北端の笠利崎から大海が一望できるが、左手は東シナ海、右手は太平洋が広がる。大島の北半分は観光客を迎える空港や大きな庭園の中の大島紬村や田中一村美術館、最大都市の名瀬がある。

瀬戸内町、ホノホシ海岸、
波に洗われた丸い小石の浜
マングローブ原生林

 

 

大島の南半分は静かな森林地域や71km2のマングローブ原生林が広がっている。観光バスは北部中心に周るそうだが、今回のツアーは島全体をドライブした。離島の加計呂麻島などの人口1200人の生活も大自然の表情を見せてくれ、人気の島らしい。

ベイマツ
大和村、マテリアの滝

 

 

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