ヒトは受信・発信の波を出すタワー

発声される思いと頭の中の思いとは、少し位置が違う。
音波と頭の中の意志との違いはもちろんのこと、空気の揺れと頭の中の揺れがない念波との違いだ。

生き物の音波と人工的な音波は違う。植物が出す念波は聞こえないが、音に変えると軽やかな波で可憐な音。植物の前を通るとその波の気配を感じる。大きな木の前を歩いても、大きな波を感じる。力強い波、木の強さ。生き物の出す聞こえない波は多い。

このほかに肌に突きささってくる波がある。
人間の体に突きささり、また出ていく。入った反対の方向に出ていく。電線と鉄塔のように、人間が受けた波はそれが来た方向と反対の方向に伝わっていく。この波は元の方向に反射することなく、通り抜けていく。

人間の体なくしてこの波は伝わることができない。人間は波を発信する役をしている。意識しないで受けた波は同じ仕組みにより出ていく。何の努力もいらない働きで、多くのものが働くのが世の中の状態だ。

しかし労力なしでは働かないものも一部分ある。人間の意志である。

意志が働かなければ人間は働けない。自然の意志は意志とは言わない。一生の間、自分の思いを発動しない人もいるが、意志の発動は努力して出す。

大きな発動は大きな意志。小さな意志を働かすと小さな発動を起こす。意志次第で大きくもなり、小さくもなる。

勉強会

勉強会とはある分野の言葉の伝達の場だ。

勉強会は世の中に数多くあるが、無駄な言葉が少ないほど上(じょう)である。

どのような言葉を使うかで、その勉強会の良し悪しがわかる。
そこではより優れた言葉を使う心得で、慎重に言葉を選びたい。

勉強会が終わっても長く記憶に残れば、それは生きた勉強会だったことになる。

集まりでは、最も新しい発見、新しい想念を与えられるのが良い。
それは偶然の発見と言うより、自分で探してみて発見することができる。

日頃の生活の中にも新しい何かを発見しようと願い、自分が作った囲いを取る。囲いの外には新しいものが広がっている。

うちわの話の重要性 (2)

うちわの話の重要性は何かと申せば、それは少数が共有することの重要性だと言えよう。

少数しか知らなければ、その話は発展しない。一般に話はよく発展するが、うちわの話は発展しない、普遍性のない、そして個性豊かな話だ。外の話とは何の繋がりもない一個の話だ。

外の話はお互いに繋がっているが、うちわの話は外に出ない限り、時間が経てば消えてしまう。外との繋がりがない故、時間が経てば、なかったも同然の存在になる。なかったことにしたい話はうちわの話として留めておくのが賢明だろう。

そしてうちわの話を尊び、精神の強い人がその実践ができる。

うちわの話の重要性 (1)

うちわの話といえば、外に出さない個人的な話、家族・親戚などの身内の話、自分が属する組織内部などの話を指す。外部の人には直接関係のない小さな地域での話である。

うちわの話が外に出ると当然厄介なことがある。例えば、外の人に理解を得られにくい話なので、正しく伝えられない、無責任な噂の的にされてしまう、私的すぎるので外に出ると意識しすぎるなど。

うちわの話が外に出ていいことはあるだろうか?
少しはありそうだ。例えば、思わぬ傾聴すべき意見を聞ける、一緒に考えてくれる人も出てくるかもしれない、外の見知らぬ人が自分の身近に感じられるかもしれない。しかし、うちわの話は本来は内にあるべきなので外に出ると、内外をまたがった話になる。

これはその話の持つ本質が変わってしまうことを意味する。内に留まっているうちは密度の濃い存在だが、いったん外に出ると密度が薄くなるだろう。密度という言葉がわかりにくければ、重要性といってもいいと思う。

うちわで留めておくうちは重要性があるが、外に出るとうちわの話でなくなる、巷の話に変身してしまう。

人間の自由意志 (2)

人それぞれの収穫は十人十色で、神は人間の収穫物の違いを楽しまれる。

人口の数だけ、カラーがある。一人として同じ人間は存在せず、しかも同じタネを頂いている。自由意志は神からの贈り物であり、御自身がまかれたタネでもある。神が刈り取り、その収穫を楽しむためだ。

「色を楽しむ」それは神がなさることだが、人間にもその楽しみを与えてくれた。神は人間にいわゆる総天然色の世界を与えてくれたが、人間の肉眼で識別(色別)できる色は限られている。

一方、神には多くの色の広がりがあり、識別できる色は人間の肉眼の幅を超えている。無数の色を持ちながら、神は人間のように自由に色を選択することはなさらない。きれいな色も寒色系の暗いと思われる色も、寄せ集めて芸術品にしたいと思われている。

暗いと思われている色も、きれいに引きたてることが可能で、やりがいもあることだ。神はバラバラの色を統一させ、調和させる大芸術家である。

人間の自由意志 (1)

人間は生活を楽しむ自由を与えられている。

ある宗教者は禁欲生活、またはそれに近い生活を送ることを、期待されていることもあるが、それは神の意志からではない。個人の意志からだ。神はいつでも自由意志を許され、人間が自由に選択するのを見ておられる。

人間を縛るのは人間で、それはそれぞれの自我から発している。いつの世でも人間は自分自身を縛るばかりでなく、他人も縛ってきた。ある宗教に出会ったとしても、自由を縛ったり、縛られたりしているならば、そこでは神も縛られている。個人の精神の自由や解放は実現できない。

人間は自分で育てたものを自分で収穫し、その収穫したものは自分で使う。全部を自分のために使う人もいる。ある人は、感謝を込めて神に初穂を捧げ、別の人は残ったものを神に捧げる。自由意志を許している神は残ったものでも受け取られる。

世の中に点在するお話

普通一つのお話(ストーリー)と言えば、まとまりのある完成され、操作されたもので、文芸作品、落語などの芸術的表現から、身の上話、個人のエピソード、一口ジョークなどの日常的なものまで入り、いろいろな分野を持つ。

ある人が考えを述べることと、一つのお話をすることとは異なる。お話はまとまった概念を人に伝える。従ってまとまった概念を持っていない人は、お話ができない。この概念が様々なので、世の話は尽きないのだ。

概念を中身で分けると、大きく次の四つに分けられると思う。

(1) 普遍性がない、害がある概念。聞いた人は損をする。
(2) 害はないが、感動もない一般論。退屈を感じ、一度聞けば十分。
(3) 笑い話。多くの人々から笑いを引き出すことに失敗しない。
(4) 普遍性があり、時として感動も与える概念。
何度聴いても飽きないことが多い。

世の中にはこれらのお話が点在している。お互いに隣り合わせで、上下のない一枚の層をなしており、お互いに葛藤することもある。もし、それが一枚の層にならずに、複数の層として存在すれば、葛藤がなくなり、それぞれ異次元のお話、次元の違うお話となるのだろうか。

地球上ではこれらのお話が一枚の「層」である状態は宿命だ。
「争う」になることが多少あっても、神様はこのままで良いと思われているのだろう。

一枚の同じ層にいる人間としては「争」になることを少しでもなくす生活の工夫が必要だ。お話を作る人、語る人は同じタイプの話が多くなりがちになる。だが、上記の(1)から(4)までのタイプのお話を上手に受け止められると、「争」は少なくなり、より多くの人と「寄り添う」一枚層が期待できる。

桃の節句、ひな祭り

ニュースは、今年の春は新型コロナ感染で今までにない事象が日本、世界で起きている、と連日伝えている。

正確にいうと、今現在、世界で生きている人々が経験しなかった事態になっている。

今は医療の発達や情報量の多さ、速さ、自由な発言などで、今までなかった状態になっている。

3月に入った。明日は桃の節句、雛祭りだ。

暦は確実に、誠実にやってくる。

雛祭りは一部では流し雛の風習もあり、健康、幸福を願って川に人形を流す。

一年に一度の3月を大切に過ごしたいと願う。

Watercolors, tisa

日という漢字を眺めてみる (2)

縦の棒はどうかと言えば、たった一本の縦棒で日という字は二間から四間に増え、日が二つになる。

この字は田んぼの田である。日がたてば、時は流れ、田んぼも変化する。昨日、今日、明日と時の流れが起こっているが、流れ自体は目に見えない。目の前のものが変化したのを見て、人は時の流れを感じる。

例えば、田んぼの変化が時の流れを感じさせてくれる。森や林が成長して変化するのは気づきにくいが、田んぼの様子は一年で確実に大きく変化する。田んぼをいつも眺めている人は、日がたった、時が流れたと、はっきり気がつく。

田んぼを変化させるものは何だろうか?
すぐ思いつくのは、太陽、水、手入れ(愛情)であろう。これらはすべて縦の棒である。上から下へ注がれるものだ。

目に見えない日々を重ねている間に、上から注がれる縦の棒によって、目に見える収穫物を持った田んぼに変化する。

日という漢字を眺めてみる (1)

今日という日、明日という日、そして昨日という日。この三つの違う言葉の中で共通しているところは日という字である。日という字は実に頻繁に目にする字である。日とは一体何だろう?

日という字をじっと見るとその意味がだんだん浮き出て来るようである。

まず、日という字は二つの間を持つ。昼と夜のことであろうか。上と下に一間づつある。面積はほぼ同じである。横線をもう一本足せば、「目」になる。「日」、その心は—- 「一つ違いでタいへんなメに遭う」

今日、明日、昨日、一日違いで大変な目に遭ったり、逢わなかったり。昨日は平和、今日は戦争といったニュースはしばしば流れて来る。

横棒とは、横から伸びて来る棒、横から来る邪魔モノ、横やりである。邪魔モノでも時としていい目を見せてくれることもあるが、ひどい目にも遭う。思いもかけないことが起こり、いろいろな目に遭ってしまうのである。こんな日のことを「棒に振ってしまった日」と言う人もいる。

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