宗教 (1)

宗教のカテゴリーにおいて、今は神に関係のない宗教団体が多くある。宗教はしばしば人々に良いイメージを与えないことがある。宗教が多く発生し集まれば、宗教に対して人々がそれぞれに違った受け取り方をする。

宗教は元来、神から与えられたものであるが、現在は人間が作り出した宗教がめじろ押しだ。今の宗教は人の中に収めてしまうことのできる、小さな教え。神が与えられた宗教の姿は、人の身に収めきれないほどの大きな教えだ。

その教えは、神の教えの代弁者のようにざっくりしている。本来の宗教は人知を超えたものでないといけない。過去、現在、未来を教えたものでなければならならない。神が見られたことをこっそり人に教えられるのが、本来の宗教の教えだった。

「宗教を語る」というテーマがあるが、神を語る人はほとんどいないのが今の状態かもしれない。神様抜きで宗教的なお話をしている。宗教を論ずる人は多い一方、自分と神の関係を考える人は少ない。これは大きな矛盾である。「宗教と自分」について考える人は「神と自分」について考える人より多い。宗教と自分を考えることは自分の内的成長にとって少しの助けにもならない。

宗教のことを切り離して「絶対的な存在と自分」について考える時が来ている。これは良い兆候と言える。

太陽

人は太古の昔から、陽が昇り、

沈み、隠れて、また現れる姿を見てきた。

多くの先達が太陽を崇め、祈ってきた。

太陽は偉大すぎて、その陽光が

身近すぎて、気づかなかった。

太陽は人の姿のシンボルであること。

人の歩む姿を示していたこと。

自ら模範の動作を示すコーチとなって

人を励まし、リズムを刻んでくれる。

 

 

筋子を眺めて思う (2)

分子はお互いにピッタリとくっ付くことは出来ず、必ず球と球の間に隙間ができる。そのスペースは一つに繋がっている。「残り物には福がある」とは、日本古来からの表現だが、物質をかたち作っている分子以外の残りの場所が、目に見えない神の場所だろう。どんな物質にも分子以外の場所がある。

地球も、一つの球だ。それを一つの分子と考えたら、宇宙空間は神の場所で、地球を一つの分子とする巨大な有機物質が広がっているとも言える。巨大な筋子だ。分子も極微粒子のものから、地球の大きさまであり、大宇宙を構成している。いやその大宇宙がまた一つの分子となっているかもしれない。

筋子を眺めながら、私はこのように考えて、人間の存在の有り様を思うのである。

筋子を眺めて思う (1)

筋子は鮭や鱒の一腹の卵だ。すずこともいう。イクラは筋子をほぐしてバラバラにした卵。この筋子とイクラを眺めると、物質を構成している分子の模型のように見える。

イクラは一粒一粒離れている。筋子は一粒一粒が筋で繋がっている。すべてのものはバラバラで存在することはできない。筋子とイクラは、誰でも目に触れることができる、物質の分子模型を示している。

人間も単独で行動しているように見えても、存在し続けているためには複数が繋がっており、しかも他の思想、意識、意志、魂と目に見えないところでも、意識するとしないに関わらず、繋がりを持っている。自分の意志は筋子のように天の意志にすっぽり包まれている。

分子といえばその形は丸い。どんな形の生物体も、細菌からゾウに至るまで、それを形作っている分子には角がない。また無機質である四角いテレビ本体も粒子から成り立ち、その画面はよく見ると丸い粒子が集まって映像を作っているのがわかる。

桜の便り

今日は朝から青空。風もなく穏やかだ。
昨日は雨、今日は快晴。ベランダで洗濯物を干し終わった時、さっと白いものが私の目の前に現れ、ふわりと落ちた。桜の花がヒトヒラ足元にある。
なぜ、ここに? 風もなく、近くに桜の木もない。ここは5階だ。すぐにわかった。母からの合図だ。

母は令和元年の5月に息を引き取った。その後、私の心の中で共に生きている。母が姿を変えた2日後。用事で近所で開業している母の主治医だった医者を訪ねた。すると歩道の左側から大きなアゲハ蝶が現れ、楽しげにずっとついて来るのだ。こんな親しげなアゲハ蝶は初めてだ。

蝶々と言えば、お墓参りでお墓近くに出てきたり、道案内するように近くを飛んだりする。故人が蝶々に姿を変えている。そんな言い伝えを思い出した。

モンシロチョウはよく見かけるが、その時は美しいアゲハ蝶だった。母が手を振っている。心細かった私に、大丈夫、と一緒に散歩してくれた。
しばらくしてそう気づいた。

桜の花びらを眺めながら、あのアゲハ蝶を思い出し、朝のひとときを過ごした。母からの桜の便りだ。この大事な便りはすぐに写真に収めた。

ベランダに届いた桜の便り

 

 

新年度始まる

4月1日。また巡ってきた。
今年はいつもと空気が違う。
垂れ込めている。人々の気持ちに加えて、今日は雨模様。

規則正しく動ける人は幸いだ。
不規則になっている人は災難だ。

その中でできること。
目を閉じて楽しいことを考えよう。

いつもスマホを見ている人、
ネットの中も空気が淀んでいる。
ニュースはコロナウイルスに占められている。

いつもと違う社会。
不安が勝っている。

こわいのは不安の感情そのもの。
不安から目をそらして、
目を閉じて楽しいことを考えよう。

はかない人間

人間は何をしている時がいちばん幸せなのだろう?
何をしている時がいちばん楽しいのだろう?
人それぞれ、という答えがまず帰ってくる。

何をすれば、多くの人が幸せを感じるのだろう。
何をすれば、多くの人が楽しく過ごせるのだろう。

現代を見まわすと、ただ行動している人は多い。
そんなことは考えずに日々暮らしている。
精神の高揚を体験することなく、淡々と生きている人々。
見方によっては、人も草木のように生きている。

日常生活の中での様々な感情をあらわしては忘れ、
あらわしては忘れの繰り返しの日々。
いつしかやって来る、老いの時代。あきらめの日々。
そんな人間のノスタルジア。
そんな人間世界のはかなさ。

楽しいことはいつか過ぎ去り、
苦しいことも時と共に薄れていく。
何かを求めて生きる人間が出会う何か。
何かが影響を与え、生き延びる魂。
魂の旅立ち。

人間ははかない。
人間は偉大だ、という人もいるだろう。
人間のはかなさはその上をいくのだ。
桜の花びらのように、降る雪のようにはかない。

消えていくものは、すべてはかない。
いつかは、実体がなくなってしまう。
思い出だけが残り、記録だけが残る。

photo, tisa

今日

今日の日は帰らない。
今日という日はかけがえのないもの。
今日を大切にしよう。

今日はいつ来るのだろう?
今日はいつ過ぎるのだろう?
時計の針が12時を指して境を決める。
本当だろうか。

私にとって今日だけが永遠への道のりの始まり。
昨日もない、明日もない、今日だけが連なって
永遠へと導く。

本当に生きている人は、過去に生きることも、
未来に生きることもしないのではないか?

今日を一番大切にしたい。
過去は現在を押し出すだけのもの。
未来も現在を助けるために、
人に夢をくれるためにあるのだろう。

過去も未来も現在の良き援助者であれ、と願う。

戦争と平和 (2)

自分が知らなくても、絶えずどこかで問題が起こっている、その連続が人間の歴史を作ってきた。平和の時代であれば、歴史の記述者は困ってしまうだろう。書くことがないのだから。すべてのものが一斉に平和である状態が、平和を願うものの突き詰めた思いだが。

日本の平和だけを願う者、あるいはアジアの平和を願う者、特定地域の平和を願うものは、真の平和主義者の一歩手前にいる。全体の平和を願う者だけが祝福されるのだ。

政治家に関して言えば、今の地上を見渡すと、誰も全体の調和がある平和を望んでいないようだ。中にはかつては平和に対する正しい理解をしていたのに、一度政治界という世界に組み込まれると、小規模平和推進者にならざるを得ない。
それが今の政治家の役目であるからだ。

すべての政治家は防御体制に入っている。一見、他国を攻撃しているように見えてもよく分析してみると、それは防御のための攻撃なのだ。現在の戦争も防御のための戦争だ。一体何をそんなに防御しているのだろう。そんなに守るものがあるのだろうか?人もそうだが、国家も防御するものがなければ、攻撃もない。防御するものを捨てれば、攻撃は免れる。シンプルな理屈だ。

 

戦争と平和 (1)

過去に多くの人がこの課題に取り組み、努力し、祈ってきた。
その間、いろいろなドラマがあっただろう。平和を得る代わりに得たもの、それは絶望であったり、希望であったり、友情であったり、苦しみであったりしてきた。過去の人々がやってきたことの成果が実りつつある現在だ。

平和を語る時、ある人は何らかの躊躇を感じると思う。
そんな柄ではないと思う人もいれば、気恥ずかしさを感じる人もいるだろう。
公然と平和運動をする人以上に、密かに平和を願っている人々は大勢いる。
平和を願っている人々の中には、宗教者もいれば、子供もいる。現状が少しでも嫌だと思う人々は、すなわち平和を願っていることになる。

「戦争と平和」という一組の言葉があるように、戦争がない状態が平和であると考える人もいる。事件が起こらないことが平和と思う人もいる。

私はこう思う。平和とは、異常な状態だ。なぜなら、、いまだかつて全世界に平和が訪れたことがあるだろうか? 答えは否。いつもどこかで争いが起きている。困っている人がいる。正しくない規則に縛られて生きている人がいる。

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