パスポート (2)

陸路の旅と違っている点は、足が大地から離れるというところにある。長時間足が大地から離れる経験をするには、海を超えて海外に行くしかない。足が大地についていない状態は、昔、そして大昔は考えられなかった。船と飛行機の発明により、人間はこの体験ができるようになった。この新しい経験が人類に与えたものは大きい。それは単に便利さだけではなく、感覚の世界にも影響を及ぼした。自分は旅人だったという感覚は、旅が終わると同時に消え去ったように思えるが、それは後に続く日常生活の中で顔を出す。

「私は地を離れた。いっときでも地を離れた。今ある生活は地についた生活だが、また再び地を離れる時がくるだろう、そして羽ばたくだろう。渡り鳥のように」
ある人はこのように考えるかもしれない。

多くの人は海を渡った経験は忘却の彼方へ押しやり、こんなことは考えないかもしれない。少なくとも本人は認識しないだろう。しかし寝ている時はどうだろう。空を飛んでいないだろうか。

 

パスポート (1)

日本国民のうち、どのくらいの割合でパスポートを所持しているのだろう。これは統計を調べればすぐわかるだろう。すでに無効になっているパスポートもたくさんあるだろう。現在有効のパスポート所持者の数はわかるのだろうか。これは日々変わる統計なので、記録していないかもしれない。しかし私は少し興味を持った。現在どのくらいの人が外国に行ける可能性があるのか、最大数がわかる。パスポートを所持していなければ、外国へ行きたいと願っても法的に不可能である。

日本人が海外に行く場合、必ず海を超えなければならない。言葉が示す通り海の外に出るのである。外国の人にとっては島国でない限り、陸路で行く外国もある。海を超えないで行く外国を持つ国は数多い。海を超えて他の国に行く、この体験は貴重なものである。一生この体験をしない人々も多いが、この体験を経験するとある感覚が生まれてくる。これは蘇ってくると言ったほうがいいかもしれない。その感覚は自分は旅人だったという感覚である。海を渡ることにより、渡り鳥のように旅をする自分を感じるのである。

絵に描いた餅

「絵に描いた餅」と聞いた時、餅の形はどんなふうに想像するだろう。
いちばん多いのが、お正月のお供えの段々重ねの餅だろうか。
ある人は長方形の切り餅を思うかもしれないし、自分の好物のみたらし団子を考える人もいるだろう。おそらく形からすぐに餅とわかる、美味しそうな絵を描くだろう。中には何も描かずに餅の一部を表現しました、という人もいるかもしれない。

実はこれは私が描く餅の絵である。餅の輪郭は絵の外にある。そのような絵が可能なのもふつうの餅は白紙と同じ白色だからだ。この場合、絵に描いた餅は形がないとも言える。絵に表現したとしながら、その形は見る人の想像に任せるという、不思議な絵になる。

一般に「絵に描いた餅」は食べたくても食べることができない、すなわち役に立たない、現実のものでないこと、という意味で使われている。ここに今一つ別の意味を加えると、どうにでもなる存在、という定義はどうだろう?

自由自在になる、しかも形まで自由にできるもの。ふつう自由になるのは形以外のものだが、絵に描いた餅はその存在の輪郭さえ自由になる代表として考えてみた。そのような具体例が他にあるのだろうか、と思われるかも知れないが、この餅は万人が持っている餅とも言えると思う。

絵からはみ出た輪郭は一人ひとりが想像してよい部分である。
それを毎日行いつつ人は生きてる、と言えないだろうか。

がまんの長さ

安倍首相によって緊急事態宣言が5月31日まで延長された。
ニュースや身の回りの状況で判断すると正常化するまで1年はかかるのではないか、と思って覚悟を決めている日々だ。

2週間で緊急事態が解かれると期待していた人々は脱力感が強いだろう。
1ヶ月をみている人は割り切って、工夫しながら生活に向き合い始めている。

5月1日の朝日新聞の朝刊に、佐藤優氏の「私のおこもり術」という記事があった。佐藤氏は元外務省職員、今は作家であり講演活動などに活躍している知の巨人である。何十年前かキリスト教関係の月刊紙「ミルトス」でやさしいヘブライ語の記事を執筆していた。その頃から何となく親しみを感じ、横浜で行われる定期講演会に総括的な政治の話を聴きに行くこともある。

佐藤氏は国策捜査で拘置所暮らしを経験していた。この記事によると2005年5月から512日間拘置され、朝7時から夜9時まで3畳の部屋に座って過ごした。本は3冊まで所持できたそうだ。

改めて普通の人が遭遇しない経験をされた事実を思い出した。今は普通に精力的に活動されている。強い、すごいと思う。人間がすごいのか、佐藤氏がすごいのか? 多分両方だろう。

 

鯉のぼりの季節

今日から連休が始まる。
今年はステイホーム週間にして下さい、と行政、メディアが呼びかけている。
1年前の2019年、平成最後の4月、目前の令和への改元のイベントに世間はエキサイトしていた。母もベッド生活を続けながらも、食欲があった。5月1日には約一年ぶりでいつもの流動食を替えて、普通米の握り寿司を食することができた。新しい令和時代を祝っていた。

部屋の片付けをしていたら、小さな額縁がたくさん出てきた。母はデイサービスに週2、3回お世話になっていた。月に一回、工作の時間があり、季節感のあるデザインで小物を作り、家に持ち帰ってくる。素朴で可愛い作品をスタッフの方々が選んでくれる。5月の鯉のぼりは2つ作品があった。今年鯉のぼりは外では見ること少ないので、玄関に飾ることにした。

母の手作りの作品は鎌倉彫も多くあるが、やはり最近の作品に母の空気やDNAを感じる。今年の特別な5月を思い、母を思いながら、新聞記事で見た伊勢崎町通りの浜っ子を元気づけたいと願う50匹の鯉のぼりストリートに散歩に行こうかと考えている。はたまた、去年母に聞かせた童謡の「こいのぼり」、甍の波に雲の波〜を歌って元気を出そうか?

布貼り絵

 

 

 

 

砂絵

 

 

村上春樹の新刊「猫を棄てる」を読む

 

コロナの影響で、多くの店舗が閉まっている。ステイホーム、外出自粛の時だ。
それでも新聞が届き、郵便物、宅配の品が届くのはありがたい。

本屋も閉まっているので、村上春樹の新刊を電子ブックで購入した。電子ブックは10数年前から徐々に増えてきた。はじめの頃の無料の本を試読したことがあるが、有料で新刊本を購入するのは今回初めてだ。ディスプレイはどうしても目が疲れるので敬遠していた。しかし「猫を棄てる」が気になり在宅時間が長い昨今、新しい読書ツールを体験することにした。

1ページ大の挿絵が多く、台湾出身の若い画家の絵は懐かしく、繰り返し鑑賞できる作品だ。村上春樹の作品の挿絵はいつもカジュアルで楽しい。しかし今回の作品は細かい描写画で、父親の時代を反映してセピア色で昭和を思い出す。

村上の作品は小説が多いが、私はエッセイが読みやすく好きだ。長編小説も細部の描写が多く、先に進まないのが良い。今回のエッセイは自らの父親や親戚のことを語る珍しい内容だ。人は歳を重ねるとやはり、自分の先祖のことが気になってくる。特に他界した人物については発表しても良いだろうと判断する。表現者は父母の面影を残したい思いが強くなるのだろう。

個人的には文中の父親の養子のエピソードで思いが大きくふくらんだ。昔は養子、養女が多くあった。戦国時代から家や政治の事情で、皇族もそうだ。親の立場で受け流される事情だが、子供の立場は複雑だ。その人生もその分深くなる。

 

 

 

過去の想い

こんなことがあったっけ。
昔、確かにこんなことがあった。
今、また同じ想いを経験している。

再び顔を出したこの想い。
だいぶ歳をとったなあ。
懐かしいこの想い。
今はここで一休みして。
さようなら、また会う時まで。
いつか思い出したいこの想い。

この想いは何処に行くのだろう。
今まで何処に隠れていたのだろう。
ひょっこり現れて、私の心を過去に戻す。
いや、想いの方が現在の私を訪ねてきた。
ありがとう。私は元気にしているよ。

ある時、私はあの想いを自分から思い出した。
自分から想いを呼んでみた。
しかし、想いはもう顔がない。
ただの思いに変わっていた。

夜明けの空気のように、
新しい思いになっていた。

比べる心

あっちとこっち。
ー どちらがおいしいかな?
子供はお菓子をいっしょうけんめいに選ぶ。
ー かみさまの、言うとおりっ。

一つにしなさい。
お母さんにいわれ、指は宙をさまよう。
止まったほうにとにかく決める。

大人はそんなことはしない。
でも心の中で選んでいる。
ー どちらが美味しそうかな?
ー どちらが得かな。
心の中で悩んでいる。

大人は目の前にないものも比べる。
ー 私の方がしあわせだ。
ー 私なんか手が届かない・・・

自分と他人。
どちらがいいか比べている。
自分のものさしは他人だ。
ものさしを捨て、自分を見ると
そこにあるのは計測不能の自分。

他人と比べないと、
測り知れない自分と出会える。

 

 

葉っぱ

テーブルにポトスの小さな葉っぱ。
もとの木から離れて、無造作に
白い小さな花瓶に入っている。
葉っぱの形になろうとしている。

葉っぱの形はいろいろある。
王様はみんなが思い浮かべる、
あの有名な、伸びたハートの形。

表面には葉脈がある。
よく見ると木の形をしている。
葉っぱも、自分のふるさとを
体全体に刻んでいる。

一つの木にたくさん葉っぱ。
葉っぱはたわわになる。
枯れても、落ちても、また出て来る。

葉っぱは木の心だ。
親の木から離れても、
木のつもりで生きている。

宗教 (2)

現存の宗教を切り離して考える。自分たちの問題を考える。様々な問題を突き詰めると神の存在が見えてくる。宗教を洗い直して神が見えてくる。

神の問題は世界各国で、昔から長く長く横たわっており、人間が長くかかって問題を解く。

どうして宗教の数が多くなったのか?
人間は宗教が好きな結果、多くの宗教団体を作った。人間が作った宗教は人々がその存在を思わなければ、自然消滅する運命にある。今は宗教がごまんとある。

目に見えないものは神様以外にごまんとある。多くの人間は問題を解決するために、目に見えないものに何かを感じて宗教に走る。そのうちにごまんとある宗教が整理される時がくる。人は立ち止まり考える。人々は知恵を借りあって多くの問題を解決する方向にある。

神に向くには技がいる。知恵がいる。目に見えないものに頼っていくときが来る。自分の中の資源に頼るようになる。まず他人のものを使って、それから自分のものを使おうとするのも人間。外のものがなくなると、あるいは外のものに頼れなくなると、自分の内にあるものに目を向ける。

「外のものを取り去って考えてみなさい」と神が言われているようだ。
神は人間から外の資源を断ち切り、人間の持つ内なる資源を使わせようとしているのかもしれない。

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