テーブルにポトスの小さな葉っぱ。
もとの木から離れて、無造作に
白い小さな花瓶に入っている。
葉っぱの形になろうとしている。
葉っぱの形はいろいろある。
王様はみんなが思い浮かべる、
あの有名な、伸びたハートの形。
表面には葉脈がある。
よく見ると木の形をしている。
葉っぱも、自分のふるさとを
体全体に刻んでいる。
一つの木にたくさん葉っぱ。
葉っぱはたわわになる。
枯れても、落ちても、また出て来る。
葉っぱは木の心だ。
親の木から離れても、
木のつもりで生きている。
これまで体験したこと、今の生活を、ちさと姿の見えないタモツさんが語った言葉をつづります。
テーブルにポトスの小さな葉っぱ。
もとの木から離れて、無造作に
白い小さな花瓶に入っている。
葉っぱの形になろうとしている。
葉っぱの形はいろいろある。
王様はみんなが思い浮かべる、
あの有名な、伸びたハートの形。
表面には葉脈がある。
よく見ると木の形をしている。
葉っぱも、自分のふるさとを
体全体に刻んでいる。
一つの木にたくさん葉っぱ。
葉っぱはたわわになる。
枯れても、落ちても、また出て来る。
葉っぱは木の心だ。
親の木から離れても、
木のつもりで生きている。
現存の宗教を切り離して考える。自分たちの問題を考える。様々な問題を突き詰めると神の存在が見えてくる。宗教を洗い直して神が見えてくる。
神の問題は世界各国で、昔から長く長く横たわっており、人間が長くかかって問題を解く。
どうして宗教の数が多くなったのか?
人間は宗教が好きな結果、多くの宗教団体を作った。人間が作った宗教は人々がその存在を思わなければ、自然消滅する運命にある。今は宗教がごまんとある。
目に見えないものは神様以外にごまんとある。多くの人間は問題を解決するために、目に見えないものに何かを感じて宗教に走る。そのうちにごまんとある宗教が整理される時がくる。人は立ち止まり考える。人々は知恵を借りあって多くの問題を解決する方向にある。
神に向くには技がいる。知恵がいる。目に見えないものに頼っていくときが来る。自分の中の資源に頼るようになる。まず他人のものを使って、それから自分のものを使おうとするのも人間。外のものがなくなると、あるいは外のものに頼れなくなると、自分の内にあるものに目を向ける。
「外のものを取り去って考えてみなさい」と神が言われているようだ。
神は人間から外の資源を断ち切り、人間の持つ内なる資源を使わせようとしているのかもしれない。
宗教のカテゴリーにおいて、今は神に関係のない宗教団体が多くある。宗教はしばしば人々に良いイメージを与えないことがある。宗教が多く発生し集まれば、宗教に対して人々がそれぞれに違った受け取り方をする。
宗教は元来、神から与えられたものであるが、現在は人間が作り出した宗教がめじろ押しだ。今の宗教は人の中に収めてしまうことのできる、小さな教え。神が与えられた宗教の姿は、人の身に収めきれないほどの大きな教えだ。
その教えは、神の教えの代弁者のようにざっくりしている。本来の宗教は人知を超えたものでないといけない。過去、現在、未来を教えたものでなければならならない。神が見られたことをこっそり人に教えられるのが、本来の宗教の教えだった。
「宗教を語る」というテーマがあるが、神を語る人はほとんどいないのが今の状態かもしれない。神様抜きで宗教的なお話をしている。宗教を論ずる人は多い一方、自分と神の関係を考える人は少ない。これは大きな矛盾である。「宗教と自分」について考える人は「神と自分」について考える人より多い。宗教と自分を考えることは自分の内的成長にとって少しの助けにもならない。
宗教のことを切り離して「絶対的な存在と自分」について考える時が来ている。これは良い兆候と言える。
人は太古の昔から、陽が昇り、
沈み、隠れて、また現れる姿を見てきた。
多くの先達が太陽を崇め、祈ってきた。
太陽は偉大すぎて、その陽光が
身近すぎて、気づかなかった。
太陽は人の姿のシンボルであること。
人の歩む姿を示していたこと。
自ら模範の動作を示すコーチとなって
人を励まし、リズムを刻んでくれる。
分子はお互いにピッタリとくっ付くことは出来ず、必ず球と球の間に隙間ができる。そのスペースは一つに繋がっている。「残り物には福がある」とは、日本古来からの表現だが、物質をかたち作っている分子以外の残りの場所が、目に見えない神の場所だろう。どんな物質にも分子以外の場所がある。
地球も、一つの球だ。それを一つの分子と考えたら、宇宙空間は神の場所で、地球を一つの分子とする巨大な有機物質が広がっているとも言える。巨大な筋子だ。分子も極微粒子のものから、地球の大きさまであり、大宇宙を構成している。いやその大宇宙がまた一つの分子となっているかもしれない。
筋子を眺めながら、私はこのように考えて、人間の存在の有り様を思うのである。
筋子は鮭や鱒の一腹の卵だ。すずこともいう。イクラは筋子をほぐしてバラバラにした卵。この筋子とイクラを眺めると、物質を構成している分子の模型のように見える。
イクラは一粒一粒離れている。筋子は一粒一粒が筋で繋がっている。すべてのものはバラバラで存在することはできない。筋子とイクラは、誰でも目に触れることができる、物質の分子模型を示している。
人間も単独で行動しているように見えても、存在し続けているためには複数が繋がっており、しかも他の思想、意識、意志、魂と目に見えないところでも、意識するとしないに関わらず、繋がりを持っている。自分の意志は筋子のように天の意志にすっぽり包まれている。
分子といえばその形は丸い。どんな形の生物体も、細菌からゾウに至るまで、それを形作っている分子には角がない。また無機質である四角いテレビ本体も粒子から成り立ち、その画面はよく見ると丸い粒子が集まって映像を作っているのがわかる。
今日は朝から青空。風もなく穏やかだ。
昨日は雨、今日は快晴。ベランダで洗濯物を干し終わった時、さっと白いものが私の目の前に現れ、ふわりと落ちた。桜の花がヒトヒラ足元にある。
なぜ、ここに? 風もなく、近くに桜の木もない。ここは5階だ。すぐにわかった。母からの合図だ。
母は令和元年の5月に息を引き取った。その後、私の心の中で共に生きている。母が姿を変えた2日後。用事で近所で開業している母の主治医だった医者を訪ねた。すると歩道の左側から大きなアゲハ蝶が現れ、楽しげにずっとついて来るのだ。こんな親しげなアゲハ蝶は初めてだ。
蝶々と言えば、お墓参りでお墓近くに出てきたり、道案内するように近くを飛んだりする。故人が蝶々に姿を変えている。そんな言い伝えを思い出した。
モンシロチョウはよく見かけるが、その時は美しいアゲハ蝶だった。母が手を振っている。心細かった私に、大丈夫、と一緒に散歩してくれた。
しばらくしてそう気づいた。
桜の花びらを眺めながら、あのアゲハ蝶を思い出し、朝のひとときを過ごした。母からの桜の便りだ。この大事な便りはすぐに写真に収めた。
4月1日。また巡ってきた。
今年はいつもと空気が違う。
垂れ込めている。人々の気持ちに加えて、今日は雨模様。
規則正しく動ける人は幸いだ。
不規則になっている人は災難だ。
その中でできること。
目を閉じて楽しいことを考えよう。
いつもスマホを見ている人、
ネットの中も空気が淀んでいる。
ニュースはコロナウイルスに占められている。
いつもと違う社会。
不安が勝っている。
こわいのは不安の感情そのもの。
不安から目をそらして、
目を閉じて楽しいことを考えよう。
人間は何をしている時がいちばん幸せなのだろう?
何をしている時がいちばん楽しいのだろう?
人それぞれ、という答えがまず帰ってくる。
何をすれば、多くの人が幸せを感じるのだろう。
何をすれば、多くの人が楽しく過ごせるのだろう。
現代を見まわすと、ただ行動している人は多い。
そんなことは考えずに日々暮らしている。
精神の高揚を体験することなく、淡々と生きている人々。
見方によっては、人も草木のように生きている。
日常生活の中での様々な感情をあらわしては忘れ、
あらわしては忘れの繰り返しの日々。
いつしかやって来る、老いの時代。あきらめの日々。
そんな人間のノスタルジア。
そんな人間世界のはかなさ。
楽しいことはいつか過ぎ去り、
苦しいことも時と共に薄れていく。
何かを求めて生きる人間が出会う何か。
何かが影響を与え、生き延びる魂。
魂の旅立ち。
人間ははかない。
人間は偉大だ、という人もいるだろう。
人間のはかなさはその上をいくのだ。
桜の花びらのように、降る雪のようにはかない。
消えていくものは、すべてはかない。
いつかは、実体がなくなってしまう。
思い出だけが残り、記録だけが残る。
今日の日は帰らない。
今日という日はかけがえのないもの。
今日を大切にしよう。
今日はいつ来るのだろう?
今日はいつ過ぎるのだろう?
時計の針が12時を指して境を決める。
本当だろうか。
私にとって今日だけが永遠への道のりの始まり。
昨日もない、明日もない、今日だけが連なって
永遠へと導く。
本当に生きている人は、過去に生きることも、
未来に生きることもしないのではないか?
今日を一番大切にしたい。
過去は現在を押し出すだけのもの。
未来も現在を助けるために、
人に夢をくれるためにあるのだろう。
過去も未来も現在の良き援助者であれ、と願う。