田中一村と小鳥たち、奄美大島の旅 (1)

奄美空港から車で5分。奄美パークの中に田中一村記念美術館がある。
高倉式住居を3棟つなげており、モダンであり、懐かしい心休まるデザインだ。
常設展は80数点の展示があり、年4回の入れ替えが行われる。

今回の展示は初期の南画、水墨画、絹本着色絵として描かれている奄美の植物と小鳥が印象に残った。

明治41年に栃木県で生まれ、生活圏は東京時代、千葉時代、そして移住先の奄美では昭和33年から19年間の孤高の生活を送った。昭和55年9月11日、古稀を目前にして自宅で倒れた。恩師の川村喜美さん、不昧さんに送られた最後の手紙には、最後まで絵を描き続けられたことへの感謝のことばが綴られていた。

今回の展示物で印象的な題材は小鳥たち。いつくしんで描かれているのが伝わる。
絵の中に、ルリカケス、アカヒゲ (この2種は天然記念物)、コウライウグイス、トラツグミ、イソヒヨドリ、琉球アカショウビンを見つけた。

天然記念物のルリカケス

天然記念物のアカヒゲ

トラツグミ

一村は自宅でトラツグミやコウライウグイスを自分で育てた。小鳥が具合悪い時は渾身の看病をした。
コウライウグイスはこの鳥が生きているあいだは描かなかったそうだ。

ウルパン・アキバ滞在記 (7)

時計が9時を回った時はもう野宿だろうと、ほとんど諦めていた。もう1時間も閉鎖時刻が過ぎている。しかしハリーはねばり、車を走らせた。と、突然大きな看板が闇の中から現れた。

「ジョルダンヴァリー・クロッシングポイント」

そして矢印があった。もう10時を過ぎている。国境に近づくと灯りがついていた。最後のスタッフが戸締りをしていた。すがる思いで事情を説明し入国を頼んだ。数多くの入念かつ執拗な質問をクリアしてイスラエルの地に入国できた時は、万歳、バンザイと叫びたいくらいの高揚感だった。

真夜中の12時にウルパンの門をくぐった時、我が家に帰って来たような安堵感があった。

ヨルダン川、洗礼式の場所
(イスラエル側)

 

ウルパン・アキバ滞在記 (6)

デビッドはアンマンに向かうと言うので彼もドライブに加わり、ツアーメイトとなった。英語圏の人は情報量が違う。駅前近くの安価なホテルを紹介してもらった。鳥料理のレストランで10時近くだったが、夕食を美味しくいただくことができた。見知らぬアラブの土地で米国人の鳥学者は心強い道連れだ。

3日目。私たちはアンマンから1時間のジェラーシュと言う古代ローマの遺跡の街を訪ねた。この日ハリーは仕事だ。ジェラーシュの町は全体が古代十都市連盟デカポリスの遺跡なのだが、非常に保存が良い。原型が完全に残っている立派な遺跡の数々に驚き、感激した。考古学に詳しい人は興味が尽きないだろう。そして古代劇場は今も夏の音楽祭でステージとなっている。素晴らしい遺産を持ちながらそれほど観光地化されておらず、素朴なのがまたよかった。

この日の夜にはウルパンに戻らなければならない。翌日は新学期だ。鳥学者と別れを告げ、夕方4時にアンマンを出た。帰りはナビゲーターのハッサンはいない。道に迷いながら国境にたどり着いたのが7時。しかしそこの役人は
「マイカーでイスラエルに入国するのは、北のジョルダンヴァリー・クロッシングポイントだ。8時には閉鎖されるから今夜は泊まった方がいい。」
と、すげなく言われた。

慌てて北に向かうが行けども行けども暗闇が続く。灯りも標識もホテルもレストランもない。人々は親切でも英語が通じない。銀行でも換金がうまくいかなかったので、ヨルダン通貨もない。食物もなく朝から食べそびれていたので空腹だ。途中道を尋ねた商店の人が追いかけてきて何やら包み紙を渡してくれた。パンが幾つか入っていた。食べ物をもらってこんなに有難いと思ったことはない。

ウルパン・アキバ滞在記 ⑸

ウルパンでは彼のほかに21ヶ国の人々と出会った。そして同じ釜の飯を食べたのだ。
これはとても貴重な体験だ、毎日強くこう思いながら過ごした。

初めの三週間の学期はまたたくまに過ぎた。
日本からのご夫妻は帰国の途に就いた。しづえさんとはクラスで苦労を共にし、心優しい大沢氏には勉強その他多くを教えてもらい、お世話になった。多くの時間を共有し、語り合ったので前日から別れが辛く、落ち込んでいた。私はさらに1ヶ月間の授業で苦労しなければならない。仲良くなったクラスのメンバーもほとんど入れ替わるのだ。

次の学期まで4日間の休みがあった。とにかくウルパンの敷地を出て外の空気を吸いたかった。韓国のハリーがヨルダンのアンマン支社を訪ねると言うので、ガソリン代割り勘で同乗させてもらい、まだ見ぬヨルダンを観光することになった。アンマンから留学しているハッサンが家に帰るのでやはり同乗して道案内をしてくれることになった。この3日間のヨルダン旅行は非常に印象に残る旅となった。

1日目。国境の税関で手間取ったため、ネタニヤを出発して7時間かかってアンマンの町に就いた。ヨルダンでの観光の予備知識がなく、ホテルの人に近くの見どころを教えてもらった。市内のローマンシアターを訪ねた。そこは現在も町の人々の憩いの場所となっていた。急な階段をベンチがわりにたくさんの人々がくつろいでいた。レバノン杉が風景の中でアクセントになって異国を感じさせてくれる。

アンマンのローマンシアター

二日目はハッサンが強く勧めるペトラの遺跡を訪ねることにした。ハリーの事務所も土曜日で休みだ。アンマン市内は道路が複雑で、市外に出ると英語のサインはなくアラビア語だけだ。必ず道に迷う。

4時間かかってペトラに着いた。入り口でペトラ滞在2日目と言う米国の鳥学者デビッドと出会った。旅は道連れ、彼も加わってこの細く続く1キロの古代ナバテヤ人の遺跡を歩いた。インディジョーンズの映画の撮影場所にもなったそうだ。ピンクの岩で造られた稀有な地形、切り立った断崖に圧倒される程高い王家の墓がそびえている。鳥学者のデビッドは遠目が効き、はるか頭上、塔のてっぺんにとまっている白鳩のツガイを見つけた。途中、少年が生まれて間もない鷹の赤ちゃんを売っていた。人々の生活は大変そうだ。王家の墓となっているいくつかの洞窟のほかに、修道院や博物館がある。山にも登り、往復6時間もかかった。しかしその価値は十分にあった。

ペトラ、鷹の赤ちゃん

 

ウルパン・アキバ滞在記(4)

日本の大沢氏の中級クラスではエッセイや新聞記事からのリーディングが多いそうだ。毎日宿題が出る。授業時間の他に自室で3時間くらいの勉強が必要だ。発音の課外授業もあり忙しく、手紙を書く暇もない。移民の生徒たちは特に熱心に学ぶし、授業の進度も速い。宿題も大沢氏に助けてもらわないとこなせなかった。

授業の他にも行事予定が目白押しだ。一週間の予定表が配られる。バイブルクラス、独立記念日の祝典、ダンスやフォークソングの練習、ユダヤ教の年間の祭りなど。毎年アメリカから参加していると言う年配の女性詩人がこう感想を述べていた。
「4月5月は独立記念日を始めとして、民族的行事が特に多い時期。だからウルパンの雰囲気はエモーショナルになり過ぎるのね。」
だが私にとってはこうした行事からユダヤ人の建国からの思いを感じ、ベストタイミングで参加できラッキーだと思っている。

ここの宿泊施設は軍隊の女性兵士の定宿でもあるので、食堂で一緒になる。シャバット(ユダヤ教の安息日)のディナーでは彼女たちの力強いフォークソングを常に聴くことができた。イスラエルには国民全体で歌える愛唱歌がたくさんある。こうした歌声からもイスラエルの気持ちが感じられる。

土曜日だけが唯一の休日で朝寝坊できる日だ。徒歩5分で行ける海岸には風通しのよいカフェテラスがあり、宿題持参でも、地中海を目の前にしてよい気分転換ができた。また二週間ごとの遠足も楽しみだった。チャーターバスで、カイザリア、エルサレム、ナザレなどの古い町を訪ね、高原を歩きながらガイドから植物や地理、歴史の話を聞いた。集合時間に関しては日本人からするとルーズだ。遠足ではそれが幸いして、急がされずにゆったり散策ができた。

ウルパンでの体験で良かったことの一つは韓国からのハリーと知り合ったことだ。彼は30歳半ばのビジネスマンだ。1年の予定でイスラエルの市場調査を行っている。彼の話は興味深かった。父親は人間国宝で金属の食器を作っている。韓国内の徴兵制度とその生活、教育問題、北朝鮮に残る両親との突然の別離があったこと、その後の家族との連絡方法が大変なことなど、ここでも日本とかけ離れた事情を抱えて生きている人たちがいた。ハリーと知り合いになって韓国が身近になった。

ウルパン・アキバ滞在記 ③

一週間後、戦争の終結宣言があるや否や、彼らは自家用車に荷物を詰め込み、一刻も早く家に帰りたいという様子で出て行った。

宿泊の部屋は4人用だが3人で使用することになった。ルームメイトは特殊児童の教育に携わるアメリカ人と、イスラエルへ移住を希望しているブラジルからの若い女性だ。彼女は英語を話さなかったので、挨拶以外のコミュニケーションは難しかった。アメリカ人は社交的で年齢も近かったので心強いルームメイトになってくれた。

ところで私は自分に対してウルパン滞在中の心得を二つ考えた。
●一人行動をしない。自分から積極的に人々の中に入って行動をする。
●好き嫌いを表さず、多くの人と友達になる。

これらのスローガンを決めると、言葉の持つ力だろうか。一人旅、しかも未知の学校生活を目前にして、何も心配することはないと思えてきた。多くの新しい体験を通して充実した学校生活になるだろう。

新学期1日目、説明会とクラス分けがある。決められた集会室に早めに行った。すると何と年配の日本人夫妻が待っている姿があった。この政情不安定の時期に、両親と同じ世代の日本人がウルパンに来ているとは予想だにしなかった。

聞くと男性の大沢氏は70歳を過ぎて二度目の入学。すでに5年もヘブライ語を続けており、夫人のしづえさんは初めての挑戦、しかも英語はわからないという。特に夫人の勇気にびっくりした。クラス分けの結果、しづえさんと同じクラスになり、英語の説明がある時は通訳することになった。

ヘブライ語初級クラス、
 世界各地から参加

クラスメートの顔ぶれ。ロシアからの移民の夫婦、休暇を利用して参加したスイスからの航空会社勤務の若い女性、韓国からの駐在員、ロシアから移民で大学の物理を教えている教授、アメリカから長期旅行中のピースメーカーと称する男性、その他、南アフリカ、フランス、ナイジェリアからの参加者15名の小クラスだ。

皆ヘブライ語の初心者なので授業では日常会話が多くなり、自己紹介やら各国の事情が話題となった。ロシアからの物理学者とナイジェリアからの留学生がひょうきんで旺盛なユーモアのセンスがあった。二人のおかげで和気あいあいのクラスになった。

ウルパン・アキバ滞在記 ②

金浦空港、済州島空港で7時間待たされ、飛行時間20時間というあきあきするフライトになってしまった。機内ではイスラエル人の半導体関係のエンジニアが隣りに座っていた。4人の成人した子供の父親で50歳くらいの気さくな、落ち着いた感じの人。有り余る時間の中、話が弾み、国や仕事、旅や家族の話などから、個人的な結婚・恋愛・離婚事情までに及んだ。おかげで降りる頃には彼の半生が頭の中に入っていた。

同機ではハイファで日本博物館のマネージャーをしているという同年代の女性とも知り合いになり、ハイファでの再会を約束した。イスラエルに到着する前からフレンドリーな雰囲気に触れて不安がだんだん消えていった。(良い出会いが待っている。)もう軌道に乗った。前進あるのみだ。

テルアビブ空港に着いたのは夜中の2時半だった。友人マリアの姿をゲート出口で見つけた時は、持つべきものは親切な友達だ、と心から嬉しく思った。私が日本を離れる前、テルアビブでバス爆破事件が続き、レバノンとの戦争も始まっていた。政情も不安定だった。実際、テルアビブ市内ではマクドナルドやショッピングセンターの入り口でテロ予防のための手荷物チェックがあり、改めて国情の違いを思った。

しかし、この国は昔から複数の異なる宗教、異なる人種が共存しつつも特別な聖地であり続けた。平和と争いもある、世界の縮図のような国、この点がイスラエルという特殊な土地の本質かもしれない。

マリア宅の裏庭に住む
親子ネコ

テルアビブから地中海に沿って車で1時間北上するとネタニヤというリゾートの町がある。目指すウルパンはこの町の郊外にある。マリアが車でウルパンまで送ってくれた。海岸に近い、住宅地区にウルパンの敷地は伸びており、学校とコテッジスタイルの生徒専用ホテルが点在している。スプリンクラーが随所にある庭には彩りよく数々の草花が咲いていた。到着したのは春休み最後の日で、新学期の前日、4月21日だった。

「普段の休み中は人がもっと少ないですよ。今はレバノン近くからの避難民が南下し来ている。このホテルでもその一部を家族単位で受け入れているんです。だからいつもより賑やかですよ。」
チェックインのとき、ホテルの人が教えてくれた。
(続く)

ウルパン・アキバ滞在記(1996年)①

1995年10月31日、自分の中で声が聞こえてきた。

「イスラエルにいざ行かん。今度はできるだけ長く。
そこから世界を眺めよう。」

今までとは違う旅のスタートだった。

私はそれまでに2回イスラエルの土地を訪れていた。最初は1985年12月、画伯M氏をリーダーとする9日間のグループツアーだった。二度目は1991年の9月、東京で親交のあった友人家族を訪ね、エルサレムに三週間のホームステイをする機会があった。同じ国を三度訪問するとなると観光だけでなく、文化やそこに住む人々をより深く知りたい欲求が出てくる。

私は翌年の春に出発することを決めた。どんな場所で、どう過ごすかは直前までイメージが湧かなかった。年が明けて3月、ある旅行会社のパンフレットを手にした。それはヘブライ語学校(ウルパン・アキバ)を紹介していた。生徒は世界各地から集まるあらゆる世代の人々、あらゆる職業の人々、とあった。人種や宗教は問わない。ウルパンに隣接する宿泊施設に泊まり、三食を共にする環境でヘブライ語を学ぼうという主旨だ。部屋もほとんど共用タイプだ。

今回、多くの人々と出会い、対話したい私の目的にぴったりの生活の場ではないか。ヘブライ語は難しそうだが、言葉からその国の文化もわかる。聖書の原文にも触れられる。記憶力が減退しつつある脳への刺激にもなる。「これだ」というヒラメキと同時に行くべき理由が次々と浮かんできた。

すぐ手続きにかかった。とりあえず泊まる場所と食事は確保できる。私は1学期22日のコースを2学期間、滞在することにした。

(集団生活は遠い昔の経験だ。
今さら見知らぬ異国の人たちと部屋を共有できるだろうか?
マイペースの生活を大切にしてきた私が。)

一抹の不安はあったが、全て経験は無駄にはならないだろうと、4人部屋を選んだ。必要書類を二週間で揃え、ファックスで送った。翌日には入学日時の確認の返事が送られてきたので、迅速な事務処理に感心した。これでフライトを予約することができた。4月の入学に間に合い、出発を4月17日と決めた。

ウルパンへ出発する前、テルアビブの友人宅に最初の4日間泊めてもらうことになった。ソウルから直行で13時間で到着の予定にアクシデントが起きた。
(続く)

京都の天橋立と伊根の舟屋を訪ねた(2)

12月2日、バスは8時30分出発の予定。ホテルは山の上近くにあり、どの部屋からも日本海が見える。

8時頃、7階の私の部屋から窓を見ると大きな虹が天橋立の中央付近から出ていた。よく見ると右側の山の中腹の白い建物は昨日上った傘松公園のリフト乗り場だ。予定していた伊根湾フェリーでクルーズも雨風のため欠航。そんな朝に虹を見せて頂いた。旅行中、隣席同士で行動を共にしていたツアーメイトの部屋をノックし、虹情報を伝えた。昨日のレインボーラインは何故その名前をつけたのか?などと話していたので、二人で虹が現れたことを喜んだ。

天の橋立に虹がかかった
傘松公園から天の橋立を眺める                                                            左の丘の上に白い宿泊ホテルが見える

予定通りバスは出発したが、霧雨が本降りとなる。伊根湾クルーズの代わりに道伝いの舟屋地域を訪ねることになった。伊根の舟屋は230軒の舟屋と130軒の土蔵がある町で江戸時代後期の建物も残っている。京都のベネチア? 海が舟着き場まで迫っており、道路からも建物の向こう側の海の様子がよく見える。バスを降りて30分くらい散歩をした時は、雨足も弱くなり写真も撮ることができた。

小雨の中の伊根の舟屋

舟屋を後にして丹後半島最北端の経ヶ岬、屏風岩、琴引浜とドライブ。雨は激しくなったり弱まったり。経ヶ岬(きょうがみさき)はかなりくねった道を上へ上へと進んだ所にある。ここの灯台は日本三大灯台の一つと言われている。断崖絶壁が続き、高度も相当高い。雨天の中、スリル満点だった。琴引浜(ことびきはま)は白浜で晴れた日はキュッキュッと子犬が泣くような音がするので有名な美しい浜。この日は雨で水を含んでいるのでその現象はなかった。この砂と白浜を維持するために日本初の禁煙ビーチで海の家などは離れたところに設置するそうだ。

福井県の三方五湖、京都の天橋立、伊根の舟屋を訪ねた(1)

12月1日日曜日。バス旅行1泊の旅に出た。新幹線の岐阜羽島から観光バスに乗り換えた。三方五湖(みかたごこ)レインボーラインを経て約1時間30分、三方五湖に到着した。山頂公園にリフトかケーブルカーで上る。天気が良く風もないのでリフトを選んだ。2分で山頂絶景エリアに着く。左手に美しい湖がいくつも重なり走っているように見える。右側も海と山々が広がり、見渡す限り青い海が広がっている。ここは若狭湾国定公園の中の景勝地で五湖それぞれの水質が異なる。2005年にラムサールに登録された。海水魚から淡水魚の魚たち、水鳥が生息している。公園全体がリニューアル完了もしくは最中で、バラ園は満開のバラが咲いていた。

メヴィウスの輪から見える
三方五胡

 

 

 

 

 

 

再びバスに乗り、京都の天橋立傘松公園に向かう。再びリフトで山頂に上るのだが、その前にふもとの元伊勢籠(この)神社を訪ねた。こじんまりした境内だが、神門入り口の重要文化財の狛犬が重厚な造りだ。拝殿は撮影禁止。お参りを済ませ、リフト乗り場に向かう。秋の木々の紅葉を眺めながら山頂に着く。すると、またつづれおりの石階段が長く続き、やっと「天橋立股のぞき の発祥の地」に辿り着く。登り道で疲れたせいか、正常のポーズで見る方が楽で良いと思った。

狛犬、重要文化財
重要文化財の狛犬

 

 

 

 

傘松公園山頂から
傘松公園山頂から
天の橋立を望む

天橋立は日本三景の一つで、呼称もきれいだ。その由来を調べると京都府広報ではこのような説明書きがあった。「丹後風土記によるとイザナギのミコトが天界と下界を結ぶためにハシゴを作って立てておいたが、ミコトが寝ている間に海上に倒れ、そのまま1本の細い陸地になった。」つまり、天のハシゴ立てがアマのハシダテと転じた? 地質学的には4000年前に複雑な潮の流れで地球上に現れたそうだ。管理も気になった。江戸時代までは知恩寺の境内として管理されていたが、明治以降は国、京都府の管理になった。

天の橋立、道路から宮津湾を眺める

傘松公園の山頂からリフトで下山し、いよいよ天橋立を歩いて渡る。長さ3.2キロの道のりを約1時間かかり、対岸の廻旋橋に着いた。幅が広いので普通の松並木を歩いている感じだった。4時過ぎて少し薄暗くなったが12月にしては寒くない。水面で休む水鳥の群れを見ながら、昔の人達が両岸の神社仏閣をお参りで行き来した道をなぞった。

天橋立桟橋から宮津湾
方面を見る

 

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